嫌の御前様もいやとは申さるまじと存じ候。性質は一度逢ひしのみにて何とも申されず候へども、怜悧《れいり》なることは慥《たし》かに候。ただ一つ不思議に思はれしは、茶店に憩《いこ》ひて一時間ばかりもゐたるに、富子さんは一度も笑はざりし事に候。丁度西洋人の一組同じ茶店にゐて、言語通ぜざるため、色々をかしき事などありて、谷田の奥さん例の達者なる英語にて通弁をして遣《つかわ》され、富子さんの母上も私も笑ひ候に、富子さんは少しも笑はずにをられ候。尤《もつとも》前便に申上候|通《とおり》、不幸なる境遇に居られし人なれば、同じ年頃の娘とは違ふ所もあるべき道理かと存じ候。何は兎《と》もあれ、御前様の一日も早く御上京なされ候て、私の眼鏡の違《たが》はざることを御認なされ候を、ひたすら待入候。かしこ。
尚々《なおなお》精次郎夫婦よりも宜《よろ》しく可申上様《もうしあぐべきよう》申出候。先日石崎に申附候|亀甲万《きつこうまん》一|樽《たる》もはや相届き候事と存じ候。
読んでしまった大野は、竹が机の傍《そば》へ出して置いた雪洞《ぼんぼり》に火を附けて、それを持って、ランプを吹き消して起った。これから独寝《ひとりね》の冷たい床に這入《はい》ってどんな夢を見ることやら。
[#地から1字上げ](明治四十三年一月)
底本:「普請中 青年 森鴎外全集2」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版森鴎外全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月〜9月刊
※底本の「お休なさとい云って、」は、「鴎外選集 第二巻」1978(昭和53)年12月22日第1刷発行を参照して、「お休なさいと云って、」に修正しました。
入力:鈴木修一
校正:松永正敏
2003年8月20日作成
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