」、第4水準2−12−83]候へ者《ば》、性命も随而《したがつて》滅絶仕候。此理を能々《よく/\》御考|被為在《あらせられ》候而、何卒《なにとぞ》非常回天之御処置を以《もつて》、魁《くわい》たる者も死一等を免《ゆる》され、同志と申自訴者は一概に御赦免に相成候様と奉存候。尤《もつとも》大罪に候へ共、朝敵に比例仕候へ者《ば》、軽浅之罪と奉存候。如此申上候へ者《ば》、私も其事に関係仕候者に而《て》右様申上候|哉《や》と御疑も可被為《あらせらるべく》在奉存候《ぞんじたてまつりそろ》。若《もし》私にも御嫌疑被為在候へば、何等の弁解も不仕候間、速《すみやか》に私|御召捕《おめしとり》に相成、私一人|誅戮《ちゆうりく》被為遊《あそばされ》、他之者は不残《のこらず》御赦免之御処置|相願度《あひねがひたく》奉存候。若《もし》魁《くわい》たる者も同志之者も御差別なく厳刑に相成候へ者《ば》、天下正義之者|忽《たちまち》朝廷を憤怨《ふんゑん》し、人心瓦解し、収拾すべからざる御場合と奉存候。旧臘《きうらふ》幕府暴政之節|被戮《りくされ》候者祭祀迄|被仰出《おほせいだされ》候由、既に死候者は被為祭、生きたる者は被戮候|而者《ては》、御政体|不相立御儀《あひたゝざるおんぎ》と奉存候。此辺之処閣下御洞察に而、御病中ながら何卒《なにとぞ》御処置被遊候御儀、単《ひとへ》に奉願候也。正月二十一日薫子。」此書を得た荒川甚作は、明治元年三月病を以て参与の職を辞し、氏名を改めて尾崎|良知《よしとも》と云ひ、名古屋に住んでゐたさうである。
 薫子の書は田中不二麿若くは丹羽淳太郎、後の名賢の手より出で、前海相|八代《やしろ》氏の実兄尾藩|磅※[#「石+(蒲/寸)」、第3水準1−89−18]《はうはく》隊士松山|義根《よしね》を経て、尾張小牧郵便局倉知伊右衛門さんの有に帰し、倉知氏はわたくしを介してこれを津下氏に贈与した。倉知氏はその薫子の自筆なることを信じてゐる。一説に薫子の書の正本は丹波国船井郡|新荘《しんしやう》村船枝の船枝神社の神職西田次郎と云ふ人が蔵してゐると云ふ。是は三宅武彦さんの語る所である。
 薫子の書は既に印行せられたことがある。それは「開成学校御構内辻(新次)後藤(謙吉)両氏蔵版遠近新聞第五号、明治二年四月十日|発兌《はつだ》」の冊中にある。新聞は尾佐竹氏が蔵してゐる。上に載する所は倉知本を底本
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