搭゚を問はず訪問して話を聞いた。しかし父が亡くなつてから、もう五十年立つてゐる。山河は依然として在つても、旧道が絶え、新道が開け、田畑が変じて邸宅市街になつてゐる。人も亦《また》さうである。父を知つてゐた人は勿論、父の事を聞いたことのある人は絶無僅有で、其の僅《わづか》に存してゐる人も、記憶のおぼろげになり、耳の遠くなつたのをかこつばかりである。
私の前に話したのは、此《かく》の如くにして集めた片々たる事実を、任意に湊合《そうがふ》したものである。伝へ誤りもあらう、聞き誤りもあらう。又|識《し》らず知《し》らずの間に、私の想像力が威《ゐ》を逞《たくまし》うして、無中《むちゆう》に有《いう》を生じた処も無いには限らない。しかし大体の上から、私はかう云ふことが出来ると信ずる。私の予想は私を欺かなかつた。私の予想は成心《せいしん》ではなかつた。私の父は善人である。気節を重んじた人である。勤王家である。愛国者である。生命財産より貴きものを有してゐた入である。理想家である。
私はかう信ずると共に、聊《いさゝか》自ら慰めた。然しながら其反面に於いて、私は父が時勢を洞察することの出来ぬ昧者《まいしや》であつた、愚《おろか》であつたと云ふことをも認めずにはゐられない。父の天分の不足を惜み、父を啓発してくれる人のなかつたのを歎かずにはゐられない。これが私の断案である。父の伝記に添へる論讃《ろんさん》である。
私は父の上を私に語つてくれた人々に、ここに感謝する。主な一人は未亡人海間の刀自《とじ》である。婦人の持前として、繊小な神経が微細な刺戟に感応して、人の記憶してゐぬことを記憶してゐてくれたので、私は未亡人に、父の経歴中の幾多の details を提供して貰つた。今一人は父を流離|瑣尾《さび》の間に認識して、久しく家に蔵匿《ざうとく》せしめて置いた三宅氏の後たる武彦君である。私は次に父を弁護してくれた二人の名を挙げる。丹羽寛夫君と鈴木無隠君とである。丹羽君は備前の重臣で、三千石取つてゐた人である。それがかう云つた。四郎左衛門を昧者《まいしや》だと云つて責めるのは酷である。当時の日本は鎖国で、備前は又鎖国中の鎖国であつた。岡山の人は足を藩の領域の外に踏み出すことが出来なかつた。青年共は女が恋しくなると、岡山の西一里ばかりの宮内《みやうち》へ往つた。しかし人に無礼をせられても咎《と
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