すると云われたのなら、よしやそう云う本に文明史上の価値はあるとしても、遠慮が足りなかったというだけの事はあるだろう。
 しかし所謂《いわゆる》危険なる洋書とはそんな物を斥《さ》して言っているのではない。
 ロシア文学で Tolstoi《トルストイ》 のある文章を嫌うのは、無政府党が「我信仰」や「我懺悔《わがざんげ》」を主義宣伝に応用しているから、一応|尤《もっと》もだとも云われよう。小説や脚本には、世界中どこの国でも、格別けむたがっているような作はない。それを危険だとしてある。「戦争と平和」で、戦争に勝つのはえらい大将やえらい参謀が勝たせるのではなくて、勇猛な兵卒が勝たせるのだとしてあれば、この観察の土台になっている個人主義を危険だとするのである。そんな風に穿鑿《せんさく》をすると同時に、老伯が素食《そしょく》をするのは、土地で好い牛肉が得られないからだと、何十年と継続している伯の原始的生活をも、猜疑《さいぎ》の目を以て視る。
 Dostojewski《ドストエウスキイ》 は「罪と償」で、社会に何の役にも立たない慾ばり婆々《ばば》あに金を持たせて置くには及ばないと云って殺す主人公を書い
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