川君にも負けない奴《やつ》がいるよ。」主人が傍《そば》から口を挟んだ。
 やはり小川の顔を横から覗くようにして、上さんが云った。「なかなか別品だったわねえ。それに肌が好くって。」
 この時通訳あがりが突然大声をして云った。「その凄い話と云うのを、僕は聞きたいなあ。」
「よせ」と、小川は鋭く通訳あがりを睨《にら》んだ。主人はどっしりした体で、胡坐《あぐら》を掻《か》いて、ちびりちびり酒を飲みながら、小川の表情を、睫毛《まつげ》の動くのをも見遁《みの》がさないように見ている。そのくせ顔は通訳あがりの方へ向けていて、笑談《じょうだん》らしい、軽い調子で話し出した。「平山君はあの話をまだしらないのかい。まあどうせ泊ると極めている以上は、ゆっくり話すとしよう。なんでも黒溝台《こっこうだい》の戦争の済んだ跡で、奉天攻撃はまだ始まらなかった頃だったそうだ。なんとか窩棚《かほう》と云う村に、小川君は宿舎を割り当てられていたのだ。小さい村で、人民は大抵避難してしまって、明家《あきや》の沢山出来ている所なのだね。小川君は隣の家も明家だと思っていたところが、ある晩便所に行って用を足している時、その明家の中で
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