の札が、電話番号の札と並べて掛けてある。いかにも立派な邸ではあるが、なんとなく様式離れのした、趣味の無い、そして陰気な構造のように感ぜられる。番町の阿久沢とか云う家に似ている。一歩を進めて言えば、古風な人には、西遊記の怪物の住みそうな家とも見え、現代的な人には、マアテルリンクの戯曲にありそうな家とも思われるだろう。
二月十七日の晩であった。奥の八畳の座敷に、二人の客があって、酒|酣《たけなわ》になっている。座敷は極めて殺風景に出来ていて、床の間にはいかがわしい文晁《ぶんちょう》の大幅《たいふく》が掛けてある。肥満した、赤ら顔の、八字|髭《ひげ》の濃い主人を始として、客の傍《そば》にも一々毒々しい緑色の切れを張った脇息《きょうそく》が置いてある。杯盤の世話を焼いているのは、色の蒼《あお》い、髪の薄い、目が好く働いて、しかも不愛相な年増《としま》で、これが主人の女房らしい。座敷から人物まで、総て新開地の料理店で見るような光景を呈している。
「なんにしろ、大勢行っていたのだが、本当に財産を拵《こしら》えた人は、晨星蓼々《しんせいりょうりょう》さ。戦争が始まってからは丸一年になる。旅順は落ち
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