その松の木の生えている明屋敷《あきやしき》が久しく子供の遊場になっていたところが、去年の暮からそこへ大きい材木や、御蔭石《みかげいし》を運びはじめた。音羽の通まで牛車で運んで来て、鼠坂の傍《そば》へ足場を掛けたり、汽船に荷物を載せる Crane《クレエヌ》 と云うものに似た器械を据え附けたりして、吊《つ》り上げるのである。職人が大勢|這入《はい》る。大工は木を削る。石屋は石を切る。二箇月立つか立たないうちに、和洋折衷とか云うような、二階家が建築せられる。黒塗の高塀が繞《めぐ》らされる。とうとう立派な邸宅が出来上がった。
 近所の人は驚いている。材木が運び始められる頃から、誰《だれ》が建築をするのだろうと云って、ひどく気にして問い合せると、深淵《ふかぶち》さんだと云う。深淵と云う人は大きい官員にはない。実業家にもまだ聞かない。どんな身の上の人だろうと疑っている。そのうち誰やらがどこからか聞き出して来て、あれは戦争の時満洲で金を儲《もう》けた人だそうだと云う。それで物珍らしがる人達が安心した。
 建築の出来上がった時、高塀と同じ黒塗にした門を見ると、なるほど深淵と云う、俗な隷書で書いた陶器
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