した。電燈が消えている。しかし部屋の中は薄明りがさしている。窓からさしているかと思って、窓を見れば、窓は真っ暗だ。「瓦斯煖炉の明りかな」と思って見ると、なるほど、礬土《はんど》の管《くだ》が五本並んで、下の端だけ樺色《かばいろ》に燃えている。しかしその火の光は煖炉の前の半畳敷程の床を黄いろに照しているだけである。それと室内の青白いような薄明りとは違うらしい。小川は兎に角電燈を附けようと思って、体を半分起した。その時正面の壁に意外な物がはっきり見えた。それはこわい物でもなんでもないが、それが見えると同時に、小川は全身に水を浴せられたように、ぞっとした。見えたのは紅唐紙《べにとうし》で、それに「立春大吉」と書いてある。その吉の字が半分裂けて、ぶらりと下がっている。それを見てからは、小川は暗示を受けたように目をその壁から放すことが出来ない。「や。あの裂けた紅唐紙の切れのぶら下っている下は、一面の粟稈《あわがら》だ。その上に長い髪をうねらせて、浅葱色《あさぎいろ》の着物の前が開いて、鼠色によごれた肌着が皺《しわ》くちゃになって、あいつが仰向けに寝ていやがる。顋《あご》だけ見えて顔は見えない。ど
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