うかして顔が見たいものだ。あ。下脣《したくちびる》が見える。右の口角から血が糸のように一筋流れている。」
 小川はきゃっと声を立てて、半分起した体を背後《うしろ》へ倒した。
 翌朝深淵の家へは医者が来たり、警部や巡査が来たりして、非常に雑※[#「二点しんにょう+鰥のつくり」、第4水準2−89−93]《ざっとう》した。夕方になって、布団を被《かぶ》せた吊台《つりだい》が舁《か》き出された。
 近所の人がどうしたのだろうと囁《ささや》き合ったが、吊台の中の人は誰だか分からなかった。「いずれ号外が出ましょう」などと云うものもあったが、号外は出なかった。
 その次の日の新聞を、近所の人は待ち兼ねて見た。記事は同じ文章で諸新聞に出ていた。多分どの通信社かの手で廻したのだろう。しかし平凡極まる記事なので、読んで失望しないものはなかった。
「小石川区|小日向《こびなた》台町《だいまち》何丁目何番地に新築落成して横浜市より引き移りし株式業深淵某氏宅にては、二月十七日の晩に新宅祝として、友人を招き、宴会を催し、深更に及びし為《た》め、一二名宿泊することとなりたるに、其《その》一名にて主人の親友なる、芝区
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