見覚えられたのがこわくなったのだね。」ここまで話して、主人は小川の顔をちょっと見た。赤かった顔が蒼《あお》くなっている。
「もうよし給え」と云った小川の声は、小さく、異様に空洞《うつろ》に響いた。
「うん。よすよよすよ。もうおしまいになったじゃないか。なんでもその女には折々土人が食物をこっそり窓から運んでいたのだ。女はそれを夜なかに食ったり、甑《かめ》の中へ便を足したりすることになっていたのを、小川君が聞き附けたのだね。顔が綺麗だから、兵隊に見せまいと思って、隠して置いたのだろう。羊の毛皮を二枚着ていたそうだが、それで粟稈の中に潜っていたにしても、※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]《かん》は焚《た》かれないから、随分寒かっただろうね。支那人は辛抱強いことは無類だよ。兎に角その女はそれきり粟稈の中から起きずにしまったそうだ。」主人は最後の一句を、特別にゆっくり言った。
 違棚の上でしつっこい金の装飾をした置時計がちいんと一つ鳴った。
「もう一時だ。寝ようかな。」こう云ったのは、平山であった。
 主客は暫《しばら》くぐずぐずしていたが、それからはどうした事か、話が栄《は》えない。と
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