金その物に興味を持っている君とは違う。しかし友達には、君のような人があるのが好い。」
主人は持前《もちまえ》の苦笑をした。「今一つの肉は好いが、営口に来て酔った晩に話した、あの事件は凄《すご》いぜ。」こう云って、女房の方をちょいと見た。
上《かみ》さんは薄い脣《くちびる》の間から、黄ばんだ歯を出して微笑《ほほえ》んだ。「本当に小川さんは、優しい顔はしていても悪党だわねえ。」小川と云うのは記者の名である。
小川は急所を突かれたとでも云うような様子で、今まで元気の好かったのに似ず、しょげ返って、饌《ぜん》の上の杯を手に取ったのさえ、てれ隠しではないかと思われた。
「あら。それはもう冷えているわ。熱いのになさいよ。」上さんは横から小川の顔を覗《のぞ》くようにしてこう云って、女中の置いて行った銚子を取り上げた。
小川は冷えた酒を汁椀《しるわん》の中へ明けて、上さんの注ぐ酒を受けた。
酒を注ぎながら、上さんは甘ったるい調子で云った、「でも営口で内に置いていた、あの子には、小川さんも※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》わなかったわね。」
「名古屋ものには小川君にも負けない奴《やつ》がいるよ。」主人が傍《そば》から口を挟んだ。
やはり小川の顔を横から覗くようにして、上さんが云った。「なかなか別品だったわねえ。それに肌が好くって。」
この時通訳あがりが突然大声をして云った。「その凄い話と云うのを、僕は聞きたいなあ。」
「よせ」と、小川は鋭く通訳あがりを睨《にら》んだ。主人はどっしりした体で、胡坐《あぐら》を掻《か》いて、ちびりちびり酒を飲みながら、小川の表情を、睫毛《まつげ》の動くのをも見遁《みの》がさないように見ている。そのくせ顔は通訳あがりの方へ向けていて、笑談《じょうだん》らしい、軽い調子で話し出した。「平山君はあの話をまだしらないのかい。まあどうせ泊ると極めている以上は、ゆっくり話すとしよう。なんでも黒溝台《こっこうだい》の戦争の済んだ跡で、奉天攻撃はまだ始まらなかった頃だったそうだ。なんとか窩棚《かほう》と云う村に、小川君は宿舎を割り当てられていたのだ。小さい村で、人民は大抵避難してしまって、明家《あきや》の沢山出来ている所なのだね。小川君は隣の家も明家だと思っていたところが、ある晩便所に行って用を足している時、その明家の中で
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