鼠坂
森鴎外
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)小日向《こびなた》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)突然|勾配《こうばい》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]
−−
小日向《こびなた》から音羽《おとわ》へ降りる鼠坂《ねずみざか》と云う坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云う意味で附けた名だそうだ。台町の方から坂の上までは人力車が通うが、左側に近頃《ちかごろ》刈り込んだ事のなさそうな生垣を見て右側に広い邸跡《やしきあと》を大きい松が一本我物顔に占めている赤土の地盤を見ながら、ここからが坂だと思う辺まで来ると、突然|勾配《こうばい》の強い、狭い、曲りくねった小道になる。人力車に乗って降りられないのは勿論《もちろん》、空車《からぐるま》にして挽《ひ》かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさえ、雨上《あまあ》がりなんぞにはむずかしい。鼠坂の名、真に虚《むな》しからずである。
その松の木の生えている明屋敷《あきやしき》が久しく子供の遊場になっていたところが、去年の暮からそこへ大きい材木や、御蔭石《みかげいし》を運びはじめた。音羽の通まで牛車で運んで来て、鼠坂の傍《そば》へ足場を掛けたり、汽船に荷物を載せる Crane《クレエヌ》 と云うものに似た器械を据え附けたりして、吊《つ》り上げるのである。職人が大勢|這入《はい》る。大工は木を削る。石屋は石を切る。二箇月立つか立たないうちに、和洋折衷とか云うような、二階家が建築せられる。黒塗の高塀が繞《めぐ》らされる。とうとう立派な邸宅が出来上がった。
近所の人は驚いている。材木が運び始められる頃から、誰《だれ》が建築をするのだろうと云って、ひどく気にして問い合せると、深淵《ふかぶち》さんだと云う。深淵と云う人は大きい官員にはない。実業家にもまだ聞かない。どんな身の上の人だろうと疑っている。そのうち誰やらがどこからか聞き出して来て、あれは戦争の時満洲で金を儲《もう》けた人だそうだと云う。それで物珍らしがる人達が安心した。
建築の出来上がった時、高塀と同じ黒塗にした門を見ると、なるほど深淵と云う、俗な隷書で書いた陶器
次へ
全10ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング