の札が、電話番号の札と並べて掛けてある。いかにも立派な邸ではあるが、なんとなく様式離れのした、趣味の無い、そして陰気な構造のように感ぜられる。番町の阿久沢とか云う家に似ている。一歩を進めて言えば、古風な人には、西遊記の怪物の住みそうな家とも見え、現代的な人には、マアテルリンクの戯曲にありそうな家とも思われるだろう。
 二月十七日の晩であった。奥の八畳の座敷に、二人の客があって、酒|酣《たけなわ》になっている。座敷は極めて殺風景に出来ていて、床の間にはいかがわしい文晁《ぶんちょう》の大幅《たいふく》が掛けてある。肥満した、赤ら顔の、八字|髭《ひげ》の濃い主人を始として、客の傍《そば》にも一々毒々しい緑色の切れを張った脇息《きょうそく》が置いてある。杯盤の世話を焼いているのは、色の蒼《あお》い、髪の薄い、目が好く働いて、しかも不愛相な年増《としま》で、これが主人の女房らしい。座敷から人物まで、総て新開地の料理店で見るような光景を呈している。
「なんにしろ、大勢行っていたのだが、本当に財産を拵《こしら》えた人は、晨星蓼々《しんせいりょうりょう》さ。戦争が始まってからは丸一年になる。旅順は落ちると云う時期に、身上《しんしょう》の有るだけを酒にして、漁師仲間を大連へ送る舟の底積にして乗り出すと云うのは、着眼が好かったよ。肝心の漁師の宰領は、為事《しごと》は当ったが、金は大して儲けなかったのに、内では酒なら幾らでも売れると云う所へ持ち込んだのだから、旨《うま》く行ったのだ。」こう云った一人の客は大ぶ酒が利いて、話の途中で、折々舌の運転が悪くなっている。渋紙のような顔に、胡麻塩鬚《ごましおひげ》が中伸《ちゅうの》びに伸びている。支那語の通訳をしていた男である。
「度胸だね」と今一人の客が合槌《あいづち》を打った。「鞍山站《あんざんてん》まで酒を運んだちゃん車《ぐるま》の主《ぬし》を縛り上げて、道で拾った針金を懐《ふところ》に捩《ね》じ込んで、軍用電信を切った嫌疑者にして、正直な憲兵を騙《だま》して引き渡してしまうなんと云う為組《しくみ》は、外のものには出来ないよ。」こう云ったのは濃紺のジャケツの下にはでなチョッキを着た、色の白い新聞記者である。
 この時|小綺麗《こぎれい》な顔をした、田舎出らしい女中が、燗《かん》を附けた銚子《ちょうし》を持って来て、障子を開けて出すと主人が女房
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