に目食《めく》わせをした。女房は銚子を忙《せわ》しげに受け取って、女中に「用があればベルを鳴らすよ、ちりんちりんを鳴らすよ、あっちへ行ってお出《いで》」と云って、障子を締めた。
 新聞記者は詞《ことば》を続《つ》いだ。「それは好《い》いが、先生自分で鞭《むち》を持って、ひゅあひゅあしょあしょあとかなんとか云って、ぬかるみ道を前進しようとしたところが、騾馬《らば》やら、驢馬《ろば》やら、ちっぽけな牛やらが、ちっとも言うことを聞かないで、綱がこんがらかって、高梁《こうりゃん》の切株だらけの畑中に立往生をしたのは、滑稽《こっけい》だったね。」記者は主人の顔をじろりと見た。
 主人は苦笑をして、酒をちびりちびり飲んでいる。
 通訳あがりの男は、何か思い出して舌舐《したなめ》ずりをした。「お蔭で我々が久し振に大牢《たいろう》の味《あじわ》いに有り附いたのだ。酒は幾らでも飲ませてくれたし、あの時位僕は愉快だった事は無いよ。なんにしろ、兵站《へいたん》にはあんまり御馳走《ごちそう》のあったことはないからなあ。」
 主人は短い笑声を漏らした。「君は酒と肉さえあれば満足しているのだから、風流だね。」
「無論さ。大杯の酒に大塊の肉があれば、能事《のうじ》畢《おわ》るね。これからまた遼陽《りょうよう》へ帰って、会社のお役人を遣《や》らなくてはならない。実はそんな事はよして南清《なんしん》の方へ行きたいのだが、人生意の如くならずだ。」
「君は無邪気だよ。あの驢馬を貰《もら》った時の、君の喜びようと云ったらなかったね。僕はそう思ったよ。君だの、あの騾馬を手に入れて喜んだ司令官の爺《じ》いさんなんぞは、仙人だと思ったよ。己は騎兵科で、こんな服を着て徒歩をするのはつらかったが、これがあれば、もうてくてく歩きはしなくっても好いと云って、ころころしていた司令官も、随分好人物だったね。あれから君は驢馬をどうしたね。」記者が通訳あがりに問うたのである。
「なに。十里河《じゅうりが》まで行くと、兵站部で取り上げられてしまった。」
 記者は主人の顔をちょいと見て、狡猾《こうかつ》げに笑った。
 主人は記者の顔を、同じような目附で見返した。「そこへ行くと、君は罪が深い。酒と肉では満足しないのだから。」
「うん。大した違いはないが、僕は今一つの肉を要求する。金も悪くはないが、その今一つの肉を得る手段に過ぎない。
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