何か物音がすると云うのだ。」通訳あがりは平山と云う男である。
 小川は迷惑だが、もうこうなれば為方《しかた》がないので、諦念《あきら》めて話させると云う様子で、上さんの注ぐ酒を飲んでいる。
 主人は話し続けた。「便所は例の通り氷っている土を少しばかり掘り上げて、板が渡してあるのだね。そいつに跨《また》がって、尻《しり》の寒いのを我慢して、用を足しながら、小川君が耳を澄まして聞いていると、その物音が色々に変化して聞える。どうも鼠やなんぞではないらしい。狗《いぬ》でもないらしい。小川君は好奇心が起って溜《た》まらなくなった。その家は表からは開けひろげたようになって見えている。※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]《かん》の縁《ふち》にしてある材木はどこかへ無くなって、築き上げた土が暴露している。その奥は土地で磚《たん》と云っている煉瓦《れんが》のようなものが一ぱい積み上げてある。どうしても奥の壁に沿うて積み上げてあるとしか思われない。小川君は物音の性質を聞き定めようとすると同時に、その場所を聞き定めようとして努力したそうだ。自分の跨がっている坑《あな》の直前は背丈位の石垣になっていて、隣の家の横側がその石垣と密接している。物音はその一番奥の所でしている。表から磚《たん》の積んだのが見えている辺である。これだけの事を考えて、小川君はとうとう探検に出掛ける決心をしたそうだ。無論便所に行くにだって、毛皮の大外套《おおがいとう》を着たままで行く。まくった尻を卸してしまえば、寒くはない。丁度便所の坑の傍《そば》に、実をむしり残した向日葵《ひまわり》の茎を二三本縛り寄せたのを、一本の棒に結び附けてある。その棒が石垣に倒れ掛かっている。それに手を掛けて、小川君は重い外套を着たままで、造做《ぞうさ》もなく石垣の上に乗って、向側を見卸したそうだ。空は青く澄んで、星がきらきらしている。そこら一面に雪が積って氷っている。夜の二時頃でもあろうが、明るい事は明るいのだね。」
 小川はつぶやくように口を挟んだ。「人の出たらめを饒舌《しゃべ》ったのを、好くそんなに覚えているものだ。」「好いから黙って聞いてい給《たま》え。石垣の向側はやはり磚が積んであって降りるには足場が好い。降りて家の背後《うしろ》へ廻って見ると、そこは当り前の壁ではない。窓を締めて、外から磚で塞いだものと見える。暫《しばら》く
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