ノ出づる劫盜《ひはぎ》の事を話せり。劫盜は旅人を覗《ねら》ふのみにて、牧者の家|抔《など》へは來ることなしとぞ。食は葱、麺包《パン》などなり。皆|旨《うま》し。されど一間にのみ籠り居らんこと物憂きに堪へねば、媼は我を慰めんとて、戸の前に小溝を掘りたり。この小テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]河は、をやみなき雨に黄なる流となりて、いと緩やかにながるめり。さて木を刻み葦を截りて作りたるは羅馬よりオスチア[#「オスチア」に二重傍線](テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]河口の港)にかよふなる帆かけ舟なり。雨あまり劇《はげ》しきときは、戸をさして闇黒裡に坐し、媼は苧をうみ、われは羅馬なる寺のさまを思へり。舟に乘りたる耶蘇は今面前に見ゆる心地す。聖母の雲に駕《の》りて、神の使の童供に舁《か》かせ給ふも見ゆ。環かざりしたる髑髏《されかうべ》も見ゆ。
雨の時過ぐれば、月を踰《こ》ゆれども曇ることなし。われは走り出でゝ遊びありくに、媼は戒《いまし》めて遠く行かしめず、又テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]の河近く寄らしめず。この岸は土|鬆《ゆる》ければ、踏むに從ひて頽《くづ》るることありといへり。
前へ
次へ
全674ページ中83ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング