サが上、岸近きところには水牛あまたあり。こは猛き獸にて、怒るときは人を殺すと聞く。されど我はこの獸を見ることを好めり。蠎蛇《をろち》の鳥を呑むときは、鳥自ら飛びて其|咽《のんど》に入るといふ類にやあらん。この獸の赤き目には、怪しき光ありて、我を引き寄せんとする如し。又此獸の馬の如く走るさま、力を極めて相鬪ふさま、皆わがために興ある事なりき。我は見たるところを沙《すな》に畫き、又歌につゞりて歌ひぬ。媼は我聲のめでたきを稱《たゝ》へて止まず。
 時は暑に向ひぬ。カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野は火の海とならんとす。瀦水《たまりみづ》は惡臭を放てり。朝夕のほかは、戸外に出づべからず。かゝる苦熱はモンテ、ピンチヨオ[#「モンテ、ピンチヨオ」に二重傍線]にありし身の知らざる所なり。かしこの夏をば、我猶|記《おぼ》えたり。乞兒《かたゐ》は人に小銅貨をねだり、麪包《パン》をば買はで氷水を飮めり。二つに割りたる大西瓜の肉赤く核《さね》黒きは、いづれの店にもありき。これをおもへば唾《つ》湧《わ》きて堪へがたし。この野邊にては、日光ますぐに射下せり。我が立てる影さへ我脚下に沒せんばかりなり。水
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