W然《さんぜん》として四邊《あたり》を射るさま、室内|貧窶《ひんく》の摸樣と、全く相反せり。圖するところはヂド[#「ヂド」に傍線]に扮したるアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が胸像なりき。氣高《けだか》く麗《うるは》しきその面輪《おもわ》、威ありて險《けは》しからざる其額際、皆我が平生の夢想するところに異ならず。我視線は覺えずすべりて、壁間の畫より座上の主人《あるじ》に移りぬ。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は面を掩ひて、世の人の我を忘れし如く、おん身も今は我を忘れて、疾く行き給へといふ。われ。否、われ爭《いか》でか行くことを得ん、爭でか此儘に行くことを得ん。おん身は聖母《マドンナ》の惠を忘れ給ふか。聖母はおん身を救ひ給はん、我等を救ひ給はん。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]。おん身は衰運に乘じて人を辱《はづかし》めんとはし給はざるべし。むかし交らひ侍りし時より、おん身の心のさる殘忍なる心ならざるを知る。さらばおん身は何故に、世擧《よこぞ》りて我を譽め我に諛《へつら》ふ時我を棄てゝ去り、今ことさらに我が世に棄てられたる殘躯《ざんく》の色も香もなきを訪《とぶら》ひ給
前へ 次へ
全674ページ中617ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング