l《あるじ》の妻。否、さてはおん身はつまさだめするものゝ先づ心得べき事あるを知り給はぬなるべし、粮廚《かてくりや》に滿ち酒|窖《あなぐら》に滿ちて、始て夫婦の間の幸福は全きものぞ。古き諺《ことわざ》にも、生活《なりはひ》を先にし戀愛を後にすといへるにあらずやと云ひぬ。
人の我上をかくおもへる、既に我が忍ぶべきところならず。況《いはん》や面《まのあた》りこれを語るをや。我は喜んで市長一家の人々と交れども、此の如き嫌疑を受くることを甘んじて、猶その家に出入すべくもあらず。今宵も市長の家を訪ふべかりし我は、歩を轉じてヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の狹き巷《こうぢ》をさまよひめぐりぬ。相向へる二列の家は、簷《のき》と簷と殆ど相觸れんとし、市店《いちみせ》の燈《ともしび》を張ること多きが爲めに、火光は到らぬ隈もなく、士女の往來織るが如くなり。渠水《きよすゐ》を望めば、燈影長く垂れて、橋を負へる石弓《せりもち》の下に、「ゴンドラ」の舟の箭《や》よりも疾《はや》く駛《はし》るを見る。忽ち歌聲の耳に入るあり。諦聽すれば、是れ戀愛と接吻との曲なり。迷路《ラビユリントス》の最も邃《ふか》き處に一軒
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