汲謔闌ゥ送りしが、客は間もなく籘の車に追ひすがりて、百姓の群と倶《とも》に見えずなりぬ。

   みたち

 牧者二三人の※[#「邦/巾」、第4水準2−8−86]《たすけ》を得て、ベネデツトオ[#「ベネデツトオ」に傍線]は戸口なる水牛の屍《かばね》を取り片付けつ。その日の物語は止むときなかりしかど、今はよくも記《おぼ》えず。翌朝疾く起きいでゝ、夕暮に都に行かんと支度に取り掛りぬ。數月の間行李の中に鎖されゐたる我|晴衣《はれぎ》はとり出されぬ。帽には美しき薔薇の花を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]したり。身のまはりにて、最も怪しげなりしは履《はき》ものなり。靴とはいへど羅馬の鞋《サンダラ》に近く覺えられき。
 カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野道の遠かりしことよ。その照る日の烈しかりしことよ。ポヽロ[#「ポヽロ」に二重傍線]の廣こうぢに出でゝ、記念塔のめぐりなる石獅の口より吐ける水を掬《むす》びて、我涸れたる咽《のんど》を潤《うるほ》しゝが、その味は人となりて後フアレルナ[#「フアレルナ」に二重傍線]、チプリイ[#「チプリイ」に二重傍線]の酒なんどを飮みたるにも増して旨かりき。〔北より羅馬に入るものは、ポルタア、デル、ポヽロ[#「ポルタア、デル、ポヽロ」に二重傍線]の關を入りて、ピアツツア、デル、ポヽロ[#「ピアツツア、デル、ポヽロ」に二重傍線]といふ美しく大なる廣こうぢに出づ。この廣こうぢはテヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]河とピンチヨオ[#「ピンチヨオ」に二重傍線]山との間にあり。兩側にはいとすぎ、亞刺比亞《アラビア》護謨《ゴム》の木(アカチア)茂りあひて、その下かげに今樣なる石像、噴水などあり。中央には四つの石獅に圍まれたる、セソストリス[#「セソストリス」に傍線]時代の記念塔あり。前には三條の直道あり。即ちヰア、バブヰノ[#「ヰア、バブヰノ」に二重傍線]、イル、コルソオ[#「イル、コルソオ」に二重傍線]、ヰア、リペツタ[#「ヰア、リペツタ」に二重傍線]なり。イル、コルソオ[#「イル、コルソオ」に二重傍線]の兩角をなしたるは、同じ式に建てたる兩|伽藍《がらん》なり。歐羅巴《ヨオロツパ》に都會多しと雖、古羅馬のピアツツア、デル、ポヽロ[#「ピアツツア、デル、ポヽロ」に二重傍線]ほど晴やかなるはあらじ。〕我は熱き頬を獅子の口に押し當て、水を頭に被りぬ。衣や潤《うるほ》はん、髮や亂れん、とドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]は氣遣ひぬ。ヰア、リペツタ[#「ヰア、リペツタ」に二重傍線]を下りゆきて、ボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]の館に近づきぬ。我もドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]も、此館の前をば幾度となく過《よぎ》りしかど、けふ迄は心とめて見しことなし。今歩を停めて仰ぎ見れば、その大さ、その豐さ、その美しさ、譬へんに物なしと覺えき。殊に目を駭《おどろ》かせるは、窓の裡なる長き絹の帷《とばり》なり。あの内にいます君は、いま我等が識る人となりぬ。きのふその君の我家に來給ひし如く、いま我等はそのみたちに入らんとす。斯く思へば嬉しさいかばかりならん。
 中庭、部屋々々を見しとき、身の震ひたるをば、われ決して忘れざるべし。あるじの君は我に親し。彼も人なり。我も人なり。然《さ》はあれどこの家居のさまこそ譬へても言はれね。聖《ひじり》と世の常の人との別もかくやあらん。方形をなして、いろ/\なる全身像、半身像を据ゑつけたる、白塗の※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]廊のいと高きが、小き園を繞《めぐ》れるあり。(後にはこゝに瓦を敷きて中庭とせり。)高き蘆薈《ろくわい》、霸王樹《はわうじゆ》なんど、廊の柱に攀《よ》ぢんとす。檸檬樹《リモネ》はまだ日の光に黄金色に染められざる、緑の實を垂れたり。希臘《ギリシヤ》の舞女の形したる像二つあり。力を併《あは》せて、金盤一つさし上げたるがその縁少しく欹《そば》だちて、水は肩に迸《はし》り落ちたり。丈高く育ちたる水草ありて、露けき緑葉もてこの像を掩《おほ》はんとす。烈しき日に燒かれたるカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の瘠土に比ぶるときは、この園の涼しさ、香《かぐは》しさ奈何《いかに》ぞや。
 闊《ひろ》き大理石の梯を登りぬ。龕《がん》あまたありて、貴き石像立てり。其一つをば、ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]聖母ならんと思ひ惑ひて、立ち停りてぬかづきぬ。後に聞けば、こはヱスタ[#「ヱスタ」に傍線]の像なりき。これも人間の奇《く》しき處女にぞありける。(譯者のいはく。希臘の竈《かまど》の神なり。男神二人に挑《いど》まれて、嫁せずして終りぬと云ひ傳ふ。)飾美しき「リフレア」着たる僮《しもべ》出で迎へつ。その面持《おももち》の優しさには、こゝの間《ま》ご
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