O國人にあらず。その衣を見るに羅馬の貴人とおぼし。この人草木の花を愛《め》づる癖あり。けふも採集に出でゝ、ポンテ、モルレ[#「ポンテ、モルレ」に二重傍線]にて車を下り、テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]河に沿ひてこなたへ來しに、圖らずも水牛の群にあひぬ。その一つ、いかなる故にか、群を離れて衝《つ》き來たりしが、幸にこの家の戸開きて、危き難を免れきとなり。ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]聞きて。さらばおん身を救ひしは、疑もなく聖母のおんしわざなり。この童は聖母の愛でさせ給ふものなれば、それに戸をば開かせ給ひしなり。おん身はまだ此童を識り給はず。物讀むことには長《た》けたれば、書きたるをも、印《お》したるをも、え讀まずといふことなし。畫かくことを善くして、いかなる形のものをも、明にそれと見ゆるやうに寫せり。「ピエトロ」寺の塔をも、水牛をも、肥えふとりたるパアテル・アムブロジオ[#「パアテル・アムブロジオ」に傍線](僧の名)をもゑがきぬ。聲は類なくめでたし。おん身にかれが歌ふを聞かせまほし。法皇の伶人もこれには優らざるべし。そが上に性《さが》すなほなる兒なり。善き兒なり。子供には譽めて聞かすること宜しからねば、その外をば申さず。されどこの子は、譽められても好き子なりといふ。客。この子の穉《をさな》きを見れば、おん身の腹にはあらざるべし。ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]。否、老いたる無花果《いちじゆく》の木には、かかる芽は出でぬものなり。されど此世には、この子の親といふもの、われとベネデツトオ[#「ベネデツトオ」に傍線]との外あらず。いかに貧くなりても、これをば育てむと思ひ侍り。そは兎《と》まれ角《かく》まれ、この獸をばいかにせん。(頭より血流るゝ、水牛の角を握りて。)戸口に挾まりたれば、たやすく動くべくもあらず。ベネデツトオ[#「ベネデツトオ」に傍線]の歸るまでは、外に出でんやうなし。こを殺しつとて、咎めらるゝことあらば、いかにすべき。客。そは心安かれ。あるじの老女《おうな》も聞きしことあるべきが、われはボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]の族《うから》なり。媼。いかでか、と答へて衣に接吻せんとせしに、客はその手をさし出して吸はせ、さて我手を兩の掌の間に挾みて、媼にいふやう。あすは此子を伴ひて、羅馬に來よ。われはボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]の館《やかた》に住めり。ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]は忝《かたじけな》しとて涙を流しつ。
 ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]はわが日ごろ書き棄てたる反古《ほご》あまた取り出でゝ、客に示しゝに、客は我頬を撫で、小きサルワトル・ロオザ[#「サルワトル・ロオザ」に傍線](名高き畫工)よと讚め稱へぬ。媼。まことに宣《のたま》ふ如し。穉きものゝ業《わざ》としては、珍しくは候はずや。それ/\の形明に備はりたり。この水牛を見給へ。この舟を見給へ。こはまた我等の住める小家なり。こは我姿を寫したるなり。鉛筆なれば、色こそ異なれ、わが姿のその儘ならずや。又我に向ひて、何にもあれ、この御方に歌ひて聞せよ。自ら作りて歌ふが好し。この童は長き物語、こまやかなる法話をさへ、歌に作りて歌ひ侍り。年|長《た》けたる僧にも劣らじと覺ゆ。客は我等二人のさまを見て、おもしろがり、我には疾《と》く歌ひて聞せよ、と勸めつ。われは常の如く遠慮なく歌ひぬ。媼は常の如くほめそやしつ。されど其歌をば記憶せず。唯だ聖母、貴き客人、水牛の三つをくりかへしたるをば未だ忘れず。客は默坐して聽きゐたり。媼はそのさまを見て、童の才に驚きて詞なきならんと推し量《はか》りつ。
 歌ひ畢《をは》りしとき、客は口を開きていふやう。さらば明日疾くその子を伴ひ來よ。否、夕暮のかたよろしからん。「アヱ、マリア」の鐘鳴る時より、一時ばかり早く來よ。さて我は最早|退《まか》るべきが、いづくよりか出づべき。水牛の塞ぎたる口の外、この家には口はなきか。又こゝを出でゝ車まで行かんに、水牛に追はるゝやうなる虞《おそれ》なからしめんには、いかにして好かるべきか。媼。かしこの壁に穴ありて、それより這ひ出づるときは、石垣も高からねば、すべりおりんこと難からず。わが如き老いたるものも、かしこより出入すべく覺え侍り。されど貴きおん方を案内しまゐらすべき口にはあらず。客は聞きも果てず、梯を上りて、穴より頭を出し、外の方を覗きていふやう。否、善き降口なり。「カピトリウム」に降りゆく階段にも讓らず。水牛の群は河のかたに遠ざかりぬ。道には眠たげなる百姓あまた、籘《とう》の束積みたる車を、馬に引かせて行けり。あの車に沿ひゆかば、また水牛に襲はるとも身を匿《かく》すに便よからん。かく見定めて、客は媼に手を吸はせ、わが頬を撫で、再びあすの事を契りおきて、茂れる蔦かづらの間をすべりおりぬ。われは
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