高ヘ或は死せるが如く枯草の上に臥し、或は狂せるが如く驅けめぐりたり。われは物語に聞ける亞弗利加《アフリカ》沙漠の旅人になりたらんやうにおもひき。
 大海の孤舟にあるが如き念をなすこと二月間、何の用事をも朝夕の涼しき間に濟ませ、終日我も出でず人も來ざりき。※[#「火+共」、第3水準1−87−42]《や》く如き熱、腐りたる蒸氣の中にありて、我血は湧きかへらんとす。沼は涸れたり。テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]の黄なる水は生温《なまぬる》くなりて、眠たげに流れたり。西瓜の汁も温し。土石の底に藏したる葡萄酒も酸《す》くして、半ば烹《に》たる如し。我喉は一滴の冷露を嘗むること能はざりき。天には一纖雲なく、いつもおなじ碧色にて、吹く風は唯だ熱き「シロツコ」(東南風)のみなり。われ等は日ごとに雨を祈り、媼は朝夕山ある方を眺めて、雲や起ると待てども甲斐なし。蔭あるは夜のみ。涼風の少しく動くは日出る時と日入る時とのみ。われは暑に苦み、この變化なき生活に倦《う》みて、殆ど死せる如くなりき。風少しく動くと覺ゆるときは、蠅|蚋《ぶよ》なんど群がり來りて人の肌を刺せり。水牛の背にも、昆蟲|聚《あつま》りて寸膚を止めねば、時々怒りて自らテヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]の黄なる流に躍り入り、身を水底に滾《まろが》してこれを攘《はら》ひたり。羅馬の市にて、闃然《げきぜん》たる午時《ひるどき》の街を行く人は、綫《すぢ》の如き陰影を求めて夏日の烈しきをかこつと雖《いへども》、これをこの火の海にたゞよひ、硫黄氣ある毒※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]を呼吸し、幾萬とも知られぬ惡蟲に膚を噛まるゝものに比ぶれば、猶是れ樂土の客ならんかし。
 九月になりて氣候やゝ温和になりぬ。フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]はこの燒原を畫かんとて來ぬ。我が住める怪しき家、劫盜《ひはぎ》の屍《かばね》をさらしたる處、おそろしき水牛、皆其筆に上りぬ。我には紙筆を與へて畫の稽古せよと勸め、又折もあらば迎へに來て、フラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]、マリウチア[#「マリウチア」に傍線]其外の人々に逢はせばやと契りおきぬ。惜むらくはこの人久しく約を履《ふ》まざりき。

   水牛

 十一月になりぬ。こゝに來しより最《もつとも》快き時節なり。爽《さはやか》なる風は山々よりおろし來ぬ。夕暮になれば、南の國ならでは無しといふ、たゞならぬ雲の色、目を驚かすやうなり。こは畫工のえうつさぬところなるべく、また敢て寫さぬものなるべし。あめ色の地に、橄欖《かんらん》(オリワ)の如く緑なる色の雲あるをば、樂土の苑囿《ゑんいう》に湧き出でたる山かと疑ひぬ。又|夕映《ゆふばえ》の赤きところに、暗碧なる雲の浮べるをば、天人の居る山の松林ならんと思ひて、そこの谷かげには、美しき神の童あまた休みゐ、白き翼を扇の如くつかひて、みづから涼を取るらんとおもひやりぬ。或日の夕ぐれ、いつもの如く夢ごゝろになりてゐたるが、ふと思ひ付きて、鍼《はり》もて穿《うが》ちたる紙片を目にあて、太陽を覗きはじめつ。ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]これを見つけて、そは目を傷《そこな》ふわざぞとて日の見えぬやうに戸をさしつ。われ無事に苦みて、外に出でゝ遊ばんことを請《こ》ひ、許《ゆるし》をえたる嬉しさに、門のかたへ走りゆき、戸を推し開きつ。その時一人の男|遽《あわた》だしく驅け入りて、門口に立ちたる我を撞《つ》きまろばし、扉をはたと閉ぢたり。われは此人の蒼ざめたる面を見、その震ふ唇より洩れたる「マドンナ」(聖母)といふ一聲を聞きも果てぬに、おそろしき勢にて、外より戸を衝《つ》くものあり。裂け飛んだる板は我頭に觸れんとせり。その時戸口を塞《ふさ》ぎたるは、血ばしる眼《まなこ》を我等に注ぎたる、水牛の頭なりき。ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]はあと叫びて、我手を握り、上の間にゆく梯《はしご》を二足三足のぼりぬ。逃げ込みたる男は、あたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]はし、ベネデツトオ[#「ベネデツトオ」に傍線]が銃の壁に掛かりたるを見出しつ。こは賊なんどの入らん折の備にとて、丸《たま》をこめおきたるなり。男は手早く銃を取りぬ。耳を貫く響と共に、烟は狹き家に滿ちわたれり。われは彼男の烟の中にて、銃把を擧げて、水牛の額を撃つを見たり。獸は隘《せば》き戸口にはさまりて前にも後にもえ動かざりしなり。
 こは何事をかし給ふ。君は物の命を取り給ひぬ。この詞はドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]が纔《わづか》にわれにかへりたる口より出でぬ。かの男。否聖母の惠なりき。我等が命を拾ひぬとこそおもへ。さて我を抱き上げて、されどわがために戸を開きしはこの恩人なりといひき。男の面は猶蒼く、額の汗は玉をなしたり。その語を聞くに
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