ニの大さ、美しさかくまでならずば、我胸の躍ることさへ治りしならん。床は鏡の如き大理石なり。壁といふ壁には、めでたき畫を貼《てふ》したり。その間々には、玻※[#「王+黎」、第3水準1−88−35]《はり》鏡を嵌《は》め、その上に花束、はなの環など持たる神童の飛行せるを畫きたり。又色美しき鳥の、翼を放ちて、赤き、黄なる、さま/″\の木の實を啄《ついば》めるを畫きたるあり。かく華やかなるものをば、今まで見しことあらざりき。
暫し待つほどに、あるじの君出でましぬ。白衣着たる、美しき貴婦人の、大なる敏《さと》き目を我等に注ぎたるを、伴ひ給へり。婦人は我額髮を撫で上げ、鋭けれども優しき目にて、我面を打ち守り、さなり、君を助けしは神のみつかひなり、この見ぐるしき衣の下に、翼はかくれたるべしと宣《のたま》ひぬ。主人。否、この兒の紅なる頬を見給へ。翼の生ゆるまでにはテヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]の河波あまた海に入るならん。母もこの兒の飛び去らんをば願はざるべし。さにあらずや。この兒を失はんことは、つらかるべし。媼。げにこの兒あらずなりなば、我小家の戸も窓も塞がりたるやうなる心地やせん。我小家は暗く、寂しくなるべし。否、このかはゆき兒には、われえ別れざるべし。婦人。されど今宵しばらくは、別るとも好からん。二三時間立ちて迎へに來よ。歸路は月あかゝるべし。そち達は盜《ぬすびと》を恐るゝことはあらじ。主人。さなり。兒をばしばしこゝにおきて、買ふものあらば買ひもて來よ。斯く云ひつゝ、主人は小き財嚢《かねいれ》をドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]が手に渡し、猶何事をか語り給ふに、我は貴婦人に引かれて奧に入りぬ。
奧の座敷の美しさ、賓客の貴さに、我魂は奪はれぬ。我はあるは壁に畫ける神童の面の、緑なる草木の間にほゝゑめるを見、あるは日ごろ半ば神のやうにおもひし、紫の韈《くつした》穿《は》ける議官《セナトオレ》、紅の袴着たる僧官《カルヂナアレ》達を見て、おのれがかゝる間に入り、かゝる人に交ることを訝《いぶか》りぬ。殊に我眼をひきしは、一間の中央なる大水盤なり。醜き龍に騎《の》りたる、美しきアモオル[#「アモオル」に傍線]の神を据ゑたり。龍の口よりは、水高く迸り出でゝ、又盤中に落ちたり。
貴婦人のこはをぢの命を救ひし兒ぞ、と引き合せ給ひしとき、賓客達は皆ほゝゑみて、我に詞を掛け、議官僧官さへ頷き給ひぬ。法皇の禁軍《まもりのつはもの》の號衣《しるし》を着たる、少《わか》く美しき士官は我手を握りぬ。人々さま/″\の事を問ふに、我は臆することなく答へつ。その詞に、人々或は譽めそやし、或は高く笑ひぬ。主人入り來りて、我に歌うたへといふに、我は喜んで命に從ひぬ。士官は我に報せんとて、泡立てる酒を酌みてわたしゝかば、我何の心もつかで飮み乾さんとせしに、貴婦人|快《はや》く傍より取り給ひぬ。我口に入りしは少許《すこしばかり》なるに、その酒は火の如く※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのほ》の如く、脈々をめぐりぬ。貴婦人はなほ我傍を離れず、笑を含みて立ち給へり。士官我にこの御方の上を歌へと勸めしに、我又喜んで歌ひぬ。何事をか聯《つら》ねけん、いまは覺えず。人々はわが詞の多かりしを、才豐なりと稱へ、わが臆せざるを、心|敏《さと》しと譽めたり。カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]なる貧きものゝ子なりとおもへば、世の常なる作をも、天才の爲せるわざの如く、愛《め》でくつがへるなるべし。人々は掌を鳴せり。士官は座の隅なる石像に戴かせたりし、美しき月桂冠を取り來りて、笑みつゝ我頭の上に安んじたり。こは固《もと》より戲謔に過ぎざりき。されどわが幼き心には、其間に眞面目なる榮譽もありと覺えられて、又なく嬉しかりき。我は尚席上にて、マリウチア[#「マリウチア」に傍線]、ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]等に教へられし歌をうたひ、又曠野の中なる古墳の栖家《すみか》、眼の光おそろしき水牛の事など人々に語り聞せつ。時は惜めども早く過ぎて、我は媼に引かれて歸りぬ。くだもの、果子など多く賜り、白銀幾つか兜兒《かくし》にさへ入れられたるわが喜はいふもさらなり、媼は衣服、器什くさ/″\の外、二瓶の葡萄酒をさへ購《あがなひ》ひ得て、幸《さち》ある日ぞとおもふなるべし。夜は草木の上に眠れり。されど仰いでおほ空を見れば、皎々《かう/\》たる望月《もちづき》、黄金の船の如く、藍碧なる青雲の海に泛《うか》びて、焦《こが》れたるカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野邊に涼をおくり降せり。
家に還りてより、優しき貴女の姿、賑はしき拍手の聲、寤寐《ごび》の間斷えず耳目を往來せり。喜ばしきは折々我夢の現《うつゝ》になりて、又ボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]の館に迎へらるゝ事なりき。かの貴
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