りき。この小房の窓には黄金色なる柑子《かうじ》のいと美しきありて、殆ど一間の中に垂れむとす。又聖母の畫あり。その姿は天使に擔ひ上げられて日光明なるところに浮び出でたり。下には聖母の息《いこ》ひたまひし墓穴ありて、もゝいろちいろの花これを掩《おほ》ひたり。われはかの柑子を見、この畫を見るに及びて、わづかに我にかへりしなり。
 この始めて僧房をたづねし時の事は、久しき間わが空想に好き材料を與へき。今もかの時の事をおもへば、めづらしくあざやかに目の前に浮び出でむとす。わが當時の心にては、僧といふ者は全く我等の知りたる常の人とは殊なるやうなりき。かの僧が褐色の衣を着たる死人の殆どおのれとおなじさまなると共に棲《す》めること、かの僧があまたの尊き人の上を語り、あまたの不思議の蹟《あと》を話すこと、かの僧の尊さをば我母のいたく敬ひ給ふことなどを思ひ合する程に、われも人と生れたる甲斐《かひ》にかゝる人にならばやと折々おもふことありき。
 母上は未亡人なりき。活計《くらし》を立つるには、鍼仕事《はりしごと》して得給ふ錢と、むかし我等が住みたりしおほいなる部屋を人に借して得給ふ價《あたひ》とあるのみなりき。われ等は屋根裏《やねうら》の小部屋に住めり。かのおほいなる部屋に引き移りたるはフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]といふ年|少《わか》き畫工なりき。フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]は心|敏《さと》く世をおもしろく暮らす少年なりき。かれはいとも/\遠きところより來ぬといふ。母上の物語り給ふを聞けば、かれが故郷にては聖母をも耶蘇の穉子をも知らずとぞ。その國の名をば※[#「王+連」、第3水準1−88−24]馬《デンマルク》といへり。當時われは世の中にいろ/\の國語ありといふことを解せねば、畫工が我が言ふことを曉《さと》らぬを耳とほきがためならむとおもひ、おなじ詞を繰り返して聲の限り高くいふに、かれはわれを可笑《をか》しきものにおもひて、をり/\果《このみ》をわれに取らせ、又わがために兵卒、馬、家などの形をゑがきあたへしことあり。われと畫工とは幾時も立たぬに中善くなりぬ。われは畫工を愛しき。母上もをり/\かれは善き人なりと宣《のたま》ひき。さるほどにわれはとある夕母上とフラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]との話を聞きしが、これを聞きてよりわがかの技藝家の少年の上をおもふ心あやしく動かされぬ。かの異國人は地獄に墜《お》ちて永く浮ぶ瀬あらざるべきかと母上問ひ給ひぬ。そはひとりかの男の上のみにはあらじ。異國人のうちにはかの男の如く惡しき事をば一たびもせざるもの多し。かの輩《ともがら》は貧き人に逢ふときは物取らせて吝《をし》むことなし。かの輩は債あるときは期を愆《あやま》たず額をたがへずして拂ふなり。然《しか》のみならず、かの輩は吾邦人のうちなる多人數の作る如き罪をば作らざるやうにおもはる。母上の問はおほよそ此の如くなりき。
 フラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]の答へけるやう。さなり。まことにいはるゝ如き事あり。かの輩のうちには善き人少からず。されどおん身は何故に然るかを知り給ふか。見給へ。世中をめぐりありく惡魔は、邪宗の人の所詮おのが手に落つべきを知りたるゆゑ、強ひてこれを誘はむとすることなし。このゆゑに彼輩は何の苦もなく善行をなし、罪惡をのがる。善き加特力《カトリコオ》教徒はこれと殊《こと》にて神の愛子《まなご》なり、これを陷《おとしい》れむには惡魔はさま/″\の手立を用ゐざること能はず。惡魔はわれ等を誘ふなり。われ等は弱きものなればその手の中に落つること多し。されど邪宗の人は肉體にも惡魔にも誘はるゝことなしと答へき。
 母上はこれを聞きて復た言ふべきこともあらねば、便《びん》なき少年の上をおもひて大息《といき》つき給ひぬ。かたへ聞《ぎき》せしわれは泣き出しつ。こはかの人の永く地獄にありて※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]に苦められむつらさをおもひければなり。かの人は善き人なるに、わがために美しき畫をかく人なるに。
 わが穉きころ、わがためにおほいなる意味ありと覺えし第三の人はペツポ[#「ペツポ」に傍線]のをぢなりき。惡人《あくにん》ペツポ[#「ペツポ」に傍線]といふも西班牙磴《スパニアいしだん》の王といふも皆その人の綽號《あだな》なりき。此王は日ごとに西班牙磴の上に出御《しゆつぎよ》ましましき。(西班牙廣こうぢよりモンテ、ピンチヨオ[#「モンテ、ピンチヨオ」に二重傍線]の上なる街に登るには高く廣き石級あり。この石級は羅馬の乞兒《かたゐ》の集まるところなり。西班牙廣こうぢより登るところなればかく名づけられしなり。)ペツポ[#「ペツポ」に傍線]のをぢは生れつき兩の足痿《な》えたる人なり。當時そを十字に組みて折り
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