食ひたり。わが最初の記念の一つは既にその芽生《めばえ》を見せたり。おもふにわれは最早六つになりし時の事ならむ。われはおのれより穉き子供二三人と向ひなる尖帽僧《カツプチノオ》の寺の前にて遊びき。寺の扉には小《ちひさ》き眞鍮の十字架を打ち付けたりき。その處はおほよそ扉の中程にてわれは僅に手をさし伸べてこれに達することを得き。母上は我を伴ひてかの扉の前を過ぐるごとに、必ずわれを掻き抱きてかの十字架に接吻せしめ給ひき。あるときわれ又子供と遊びたりしに、甚だ穉《をさな》き一人がいふやう。いかなれば耶蘇《やそ》の穉子は一たびもこの群に來て、われ等と共に遊ばざるといひき。われさかしく答ふるやう。むべなり、耶蘇の穉子は十字架にかゝりたればといひき。さてわれ等は十字架の下にゆきぬ。かしこには何物も見えざりしかど、われ等は猶母に教へられし如く耶蘇に接吻せむとおもひき。さるを我等が口はかしこに屆くべきならねば、我等はかはる/″\抱き上げて接吻せしめき。一人の子のさし上げられて僅に唇を尖らせたるを、抱いたる子力足らねば落しつ。この時母上通りかゝり給へり。この遊のさまを見て立ち住《と》まり、指組みあはせて宣《のたま》ふやう。汝等はまことの天使なり。さて汝はといひさして、母上はわれに接吻し給ひ、汝はわが天使なりといひ給ひき。
 母上は隣家の女子の前にて、わがいかに罪なき子なるかを繰り返して語り給ひぬ。われはこれを聞きしが、この物語はいたくわが心に協《かな》ひたり。わが罪なきことは固《もと》よりこれがために前には及ばずなりぬ。人の意を迎へて自ら喜ぶ性《さが》の種は、この時始めて日光を吸ひ込みたりしなり。造化は我におとなしく軟《やはらか》なる心を授けたりき。さるを母上はつねに我がこゝろのおとなしきを我に告げ、わがまことに持てる長處と母上のわが持てりと思ひ給へる長處とを我にさし示して、小兒の罪なさはかの醜き「バジリスコ」の獸におなじきをおもひ給はざりき。かれもこれもおのが姿を見るときは死なでかなはぬ者なるを。
 彼《かの》尖帽宗《カツプチヨオ》の寺の僧にフラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]といへるあり。こは母上の懺悔を聞く人なりき。かの僧に母上はわがおとなしさを告げ給ひき。祈のこゝろをばわれ知らざりしかど、祈の詞をばわれ善く諳《そらん》じて洩らすことなかりき。僧は我をかはゆきものにおもひて、あるとき我に一枚の圖をおくりしことあり。圖の中なる聖母《マドンナ》のこぼし給ふおほいなる涙の露は地獄の※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのほ》の上におちかかれり。亡者は爭ひてかの露の滴りおつるを承《う》けむとせり。僧は又一たびわれを伴ひてその僧舍にかへりぬ。當時わが目にとまりしは、方《けた》なる形に作りたる圓柱の廊なりき。廊に圍まれたるは小《ちさ》き馬鈴藷圃《ばれいしよばたけ》にて、そこにはいとすぎ(チプレツソオ)の木二株、檸檬《リモネ》の木一株立てりき。開《あ》け放ちたる廊には世を逝《みまか》りし僧どもの像をならべ懸けたり。部屋といふ部屋の戸には獻身者の傳記より撰び出したる畫圖を貼り付けたり。當時わがこの圖を觀し心は、後になりてラフアエロ[#「ラフアエロ」に傍線]、アンドレア・デル・サルトオ[#「アンドレア・デル・サルトオ」に傍線]が作を觀る心におなじかりき。
 僧はそちは心|猛《たけ》き童なり、いで死人を見せむといひて、小き戸を開きつ。こゝは廊《わたどの》より二三級低きところなりき。われは延《ひ》かれて級を降りて見しに、こゝも小き廊にて、四圍悉く髑髏《どくろ》なりき。髑髏は髑髏と接して壁を成し、壁はその並びざまにて許多《あまた》の小龕《せうがん》に分れたり。おほいなる龕には頭のみならで、胴をも手足をも具へたる骨あり。こは高位の僧のみまかりたるなり。かゝる骨には褐色の尖帽を被《き》せて、腹に繩を結び、手には一卷の經文若くは枯れたる花束を持たせたり。贄卓《にへづくゑ》、花形《はながた》の燭臺、そのほかの飾をば肩胛《かひがらぼね》、脊椎《せのつちぼね》などにて細工したり。人骨の浮彫《うきぼり》あり。これのみならず忌まはしくも、又趣なきはこゝの拵へざまの全體なるべし。僧は祈の詞を唱へつゝ行くに、われはひたと寄り添ひて從へり。僧は唱へ畢《をは》りていふやう。われも早晩《いつか》こゝに眠らむ。その時汝はわれを見舞ふべきかといふ。われは一語をも出すこと能はずして、僧と僧のめぐりなる氣味わるきものとを驚き※[#「目+台」、第3水準1−88−79]《み》たり。まことに我が如き穉子をかゝるところに伴ひ入りしは、いとおろかなる業《わざ》なりき。われはかしこにて見しものに心を動かさるゝこと甚しかりければ、歸りて僧の小房に入りしとき纔《わづか》に生き返りたるやうな
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