敷き居たり。されど穉きときよりの熟錬にて、をぢは兩手もて歩くこといと巧なり。其手には革紐を結びて、これに板を掛けたるが、をぢがこの道具にて歩む速さは健《すこや》かなる脚もて行く人に劣らず。をぢは日ごとに上にもいへるが如く西班牙磴の上に坐したり。さりとて外の乞兒の如く憐を乞ふにもあらず。唯だおのが前を過ぐる人あるごとに、詐《いつはり》ありげに面《おもて》をしかめて「ボン、ジヨオルノオ」(我俗の今日はといふ如し)と呼べり。日は既に入りたる後もその呼ぶ詞はかはらざりき。母上はこのをぢを敬ひ給ふことさまでならざりき。あらず。親族《みうち》にかゝる人あるをば心のうちに恥ぢ給へり。されど母上はしば/\我に向ひて、そなたのためならば、彼につきあひおくとのたまひき。餘所《よそ》の人の此世にありて求むるものをば、かの人|筐《かたみ》の底に藏《をさ》めて持ちたり。若し臨終に、寺に納めだにせずば、そを讓り受くべき人、わが外にはあらぬを、母上は恃《たの》みたまひき。をぢも我に親むやうなるところありしが、我は其側にあるごとに、まことに喜ばしくおもふこと絶てなかりき。或る時、我はをぢの振舞を見て、心に怖を懷きはじめき。こは、をぢの本性をも見るに足りぬべき事なりき。例の石級の下に老いたる盲《めくら》の乞兒《かたゐ》ありて、往きかふ人の「バヨツコ」(我二錢|許《ばかり》に當る銅貨)一つ投げ入れむを願ひて、薄葉鐵《トルヲ》の小筒をさら/\と鳴らし居たり。我がをぢは、面にやさしげなる色を見せて、帽を揮《ふ》り動しなどすれど、人々その前をばいたづらに過ぎゆきて、かの盲人の何の會釋もせざるに、錢を與へき。三人かく過ぐるまでは、をぢ傍より見居たりしが、四人めの客かの盲人に小貨幣二つ三つ與へしとき、をぢは毒蛇の身をひねりて行く如く、石級を下りて、盲の乞兒の面を打ちしに、盲の乞兒は錢をも杖をも取りおとしつ。ペツポ[#「ペツポ」に傍線]の叫びけるやう。うぬは盜人なり。我錢を竊《ぬす》む奴《やつ》なり。立派に廢人《かたは》といはるべき身にもあらで、たゞ目の見えぬを手柄顏に、わが口に入らむとする「パン」を奪ふこそ心得られねといひき。われはこゝまでは聞きつれど、こゝまでは見てありつれど、この時買ひに出でたる、一「フオリエツタ」(一勺)の酒をひさげて、急ぎて家にかへりぬ。
 大祭日には、母につきてをぢがり祝《よろこび》にゆきぬ。その折には苞苴《みやげ》もてゆくことなるが、そはをぢが嗜《たしな》めるおほ房の葡萄二つ三つか、さらずば砂糖につけたる林檎なんどなりき。われはをぢ御《ご》と呼びかけて、その手に接吻しき。をぢはあやしげに笑ひて、われに半「バヨツコ」を與へ、果子をな買ひそ、果子は食ひ畢《をは》りたるとき、迹かたもなくなるものなれど、この錢はいつまでも貯へらるゝものぞと教へき。
 をぢが住めるところは、暗くして見苦しかりき。一|間《ま》には窓といふものなく、また一|間《ま》には壁の上の端に、破硝子《やれガラス》を紙もて補ひたる小窓ありき。臥床《ふしど》の用をもなしたる大箱と、衣を藏《をさ》むる小桶二つとの外には、家具といふものなし。をぢがり往け、といはるゝときは、われ必ず泣きぬ。これも無理ならず。母上はをぢにやさしくせよ、と我にをしへながら、我を嚇《おど》さむとおもふときは、必ずをぢを案山子《かゝし》に使ひ給ひき。母上の宣《の》たまひけるやう。かく惡劇《いたづら》せば、好きをぢ御の許にやるべし。さらば汝も磴《いしだん》の上に坐して、をぢと共に袖乞するならむ、歌をうたひて「バヨツコ」をめぐまるゝを待つならむとのたまふ。われはこの詞を聞きても、あながち恐るゝことなかりき。母上は我をいつくしみ給ふこと、目の球にも優れるを知りたれば。
 向ひの家の壁には、小龕《せうがん》をしつらひて、それに聖母の像を据ゑ、その前にはいつも燈を燃やしたり。「アヱ、マリア」の鐘鳴るころ、われは近隣の子供と像の前に跪《ひざまづ》きて歌ひき。燈の光ゆらめくときは、聖母も、いろ/\の紐、珠、銀色したる心《しん》の臟などにて飾りたる耶蘇のをさな子も、共に動きて、我等が面を見て笑み給ふ如くなりき。われは高く朗なる聲して歌ひしに、人々聞きて善き聲なりといひき。或る時|英吉利《イギリス》人の一家族、我歌を聞きて立ちとまり、歌ひ畢《をは》るを待ちて、長《をさ》らしき人われに銀貨一つ與へき。母に語りしに、そなたが聲のめでたさ故、とのたまひき。されどこの詞は、その後我祈を妨ぐること、いかばかりなりしを知らず。それよりは、聖母の前にて歌ふごとに、聖母の上をのみ思ふこと能はずして、必ず我聲の美しきを聞く人やあると思ひ、かく思ひつゝも、聖母のわがあだし心を懷けるを嫉《にく》み給はむかとあやぶみ、聖母に向ひて罪を謝し、あはれなる子に慈悲
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