の眸を垂れ給へと願ひき。
 わが餘所の子供に出で逢ふは、この夕の祈の時のみなりき。わが世は靜けかりき。わが自ら作りたる夢の世に心を潜め、仰ぎ臥して開きたる窓に向ひ、伊太利《イタリア》の美しき青空を眺め、日の西に傾くとき、紫の光ある雲の黄金色したる地の上に垂れかゝりたるをめで、時の遷《うつ》るを知らざることしば/\なりき。ある時は、遠くクヰリナアル[#「クヰリナアル」に二重傍線](丘の名にて、其上に法皇の宮居あり)と家々の棟《むね》とを越えて、紅に染まりたる地平線のわたりに、眞黒《まくろ》に浮き出でゝ見ゆる「ピニヨロ」の木々の方へ、飛び行かばや、と願ひき。我部屋には、この眺ある窓の外、中庭に向へる窓ありき。我家の中庭は、隣の家の中庭に並びて、いづれもいと狹く、上の方は木の「アルタナ」(物見のやうにしたる屋根)にて鎖《とざ》されたり。庭ごとに石にて甃《たゝ》みたる井ありしが、家々の壁と井との間をば、人ひとり僅かに通らるゝほどなれば、我は上より覗きて、二つの井の内を見るのみなりき。緑なるほうらいしだ(アヂアンツム)生ひ茂りて、深きところは唯だ黒くのみぞ見えたる。俯してこれを見るたびに、われは地の底を見おろすやうに覺えて、ここにも怪しき境ありとおもひき。かゝるとき、母上は杖の尖《さき》にて窓硝子を淨め、なんぢ井に墜ちて溺れだにせずば、この窓に當りたる木々の枝には、汝が食ふべき果《このみ》おほく熟すべしとのたまひき。

   隧道、ちご

 我家に宿りたる畫工は、廓外に出づるをり、我を伴ひゆくことありき。畫を作る間は、われかれを妨ぐることなかりき。さて作り畢《をは》りたるとき、われ穉《をさな》き物語して慰むるに、かれも今はわが國の詞を解《げ》して、面白がりたり。われは既に一たび畫工に隨ひて、「クリア、ホスチリア」にゆき、昔游戲の日まで猛獸を押し込めおきて、つねに無辜《むこ》の俘囚を獅子、「イヱナ」獸なんどの餌としたりと聞く、かの暗き洞の深き處まで入りしことあり。洞の裡《うち》なる暗き道に、我等を導きてくゞり入り、燃ゆる松火《たいまつ》を、絶えず石壁に振り當てたる僧、深き池の水の、鏡の如く明《あきらか》にて、目の前には何もなきやうなれば、その足もとまで湛へ寄せたるを知らむには、松火もて觸れ探らではかなはざるほどなる、いづれもわが空想を激したりき。われは怖をば懷かざりき。そは危しといふことを知らねばなりけり。
 街のはつる處に、「コリゼエオ」(大觀棚《おほさじき》)の頂見えたるとき、われ等はかの洞の方へゆくにや、と畫工に問ひしに、否、あれよりは※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はるか》に大なる洞にゆきて、面白きものを見せ、そなたをも景色と倶《とも》に寫すべし、と答へき。葡萄圃の間を過ぎ、古の混堂《ゆや》の址《あと》を圍みたる白き石垣に沿ひて、ひたすら進みゆく程に羅馬の府の外に出でぬ。日はいと烈しかりき。緑の枝を手折りて、車の上に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]し、農夫はその下に眠りたるに、馬は車の片側に弔《つ》り下げたる一束の秣《まぐさ》を食ひつゝ、ひとり徐《しづか》に歩みゆけり。やう/\女神エジエリア[#「エジエリア」に傍線]の洞にたどり着きて、われ等は朝餐《あさげ》を食《たう》べ、岩間より湧き出づる泉の水に、葡萄酒混ぜて飮みき。洞の裏《うち》には、天井にも四方の壁にも、すべて絹、天鵝絨《びろおど》なんどにて張りたらむやうに、緑こまやかなる苔生ひたり。露けく茂りたる蔦《つた》の、おほいなる洞門にかゝりたるさまは、カラブリア[#「カラブリア」に二重傍線]州の谿間《たにま》なる葡萄架《ぶだうだな》を見る心地す。洞の前數歩には、その頃いと寂しき一軒の家ありて、「カタコンバ」のうちの一つに造りかけたりき。この家今は潰《つひ》えて斷礎をのみぞ留めたる。「カタコンバ」は人も知りたる如く、羅馬城とこれに接したる村々とを通ずる隧道《すゐだう》なりしが、半《なかば》はおのづから壞れ、半は盜人、ぬけうりする人なんどの隱家となるを厭ひて、石もて塞がれたるなり。當時猶存じたるは、聖セバスチヤノ[#「セバスチヤノ」に傍線]寺の内なる穹窿の墓穴よりの入口と、わが言へる一軒家よりの入口とのみなりき。さてわれ等はかの一軒家のうちなる入口より進み入りしが、おもふに最後に此道を通りたるはわれ等二人なりしなるべし。いかにといふに此入口はわれ等が危き目に逢ひたる後、いまだ幾《いくばく》もあらぬに塞がれて、後には寺の内なる入口のみ殘りぬ。かしこには今も僧一人居りて、旅人を導きて穴に入らしむ。
 深きところには、軟《やはらか》なる土に掘りこみたる道の行き違ひたるあり。その枝の多き、その樣の相似たる、おもなる筋を知りたる人
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