も踏み迷ふべきほどなり。われは穉心《をさなごゝろ》に何ともおもはず。畫工はまた豫め其心して、我を伴ひ入りぬ。先づ蝋燭一つ點《とも》し、一をば猶衣のかくしの中に貯へおき、一卷《ひとまき》の絲の端を入口に結びつけ、さて我手を引きて進み入りぬ。忽ち天井低くなりて、われのみ立ちて歩まるゝところあり、忽ち又岐路の出づるところ廣がりて方形をなし、見上ぐるばかりなる穹窿をなしたるあり。われ等は中央に小き石卓を据ゑたる圓堂を過《よぎ》りぬ。こゝは始て基督教に歸依《きえ》したる人々の、異教の民に逐はるゝごとに、ひそかに集りて神に仕へまつりしところなりとぞ。フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]はこゝにて、この壁中に葬られたる法皇十四人、その外數千の獻身者の事を物語りぬ。われ等は石龕のわれ目に燭火《ともしび》さしつけて、中なる白骨を見き。(こゝの墓には何の飾もなし。拿破里《ナポリ》に近き聖ヤヌアリウス[#「ヤヌアリウス」に傍線]の「カタコンバ」には聖像をも文字をも彫りつけたるあれど、これも技術上の價あるにあらず。基督教徒の墓には、魚を彫りたり。希臘《ギリシア》文の魚といふ字は「イヒトユス」なれば、暗に「イエソウス、クリストス、テオウ ウイオス、ソオテエル」の文の首字を集めて語をなしたるなり。此希臘文はこゝに耶蘇《やそ》基督《キリスト》神子《かみのこ》救世者と云ふ。)われ等はこれより入ること二三歩にして立ち留りぬ。ほぐし來たる絲はこゝにて盡きたればなり。畫工は絲の端を控鈕《ボタン》の孔に結びて、蝋燭を拾ひ集めたる小石の間に立て、さてそこに蹲《うづくま》りて、隧道の摸樣を寫し始めき。われは傍なる石に踞《こしか》けて合掌し、上の方を仰ぎ視ゐたり。燭は半ば流れたり。されどさきに貯へおきたる新なる蝋燭をば、今取り出してその側におきたる上、火打道具さへ帶びたれば、消えなむ折に火を點すべき用意ありしなり。
われはおそろしき暗黒天地に通ずる幾條の道を望みて、心の中にさま/″\の奇怪なる事をおもひ居たり。この時われ等が周圍には寂として何の聲も聞えず、唯だ忽ち斷え忽ち續く、物寂しき岩間の雫の音を聞くのみなりき。われはかく由《よし》なき妄想を懷きてしばしあたりを忘れ居たるに、ふと心づきて畫工の方を見やれば、あな訝《いぶ》かし、畫工は大息つきて一つところを馳せめぐりたり。その間かれは頻《しきり》に俯して、地上のものを搜し索《もと》むる如し。かれは又火を新なる蝋燭に點じて再びあたりをたづねたり。その氣色《けしき》ただならず覺えければ、われも立ちあがりて泣き出しつ。
この時畫工は聲を勵まして、こは何事ぞ、善き子なれば、そこに坐《すわ》りゐよ、と云ひしが、又眉を顰《ひそ》めて地を見たり。われは畫工の手に取りすがりて、最早登りゆくべし、こゝには居りたくなし、とむつかりたり。畫工は、そちは善き子なり、畫かきてや遣らむ、果子をや與へむ、こゝに錢もあり、といひつゝ、衣のかくしを探して、財布を取り出し、中なる錢をば、ことごとく我に與へき。我はこれを受くるとき、畫工の手の氷の如く冷《ひやゝか》になりて、いたく震ひたるに心づきぬ。我はいよ/\騷ぎ出し、母を呼びてます/\泣きぬ。畫工はこの時我肩を掴みて、劇《はげ》しくゆすり搖《うご》かし、靜にせずば打擲《ちやうちやく》せむ、といひしが、急に手巾《ハンケチ》を引き出して、我腕を縛りて、しかと其端を取り、さて俯してあまたゝび我に接吻し、かはゆき子なり、そちも聖母に願へ、といひき。絲をや失ひ給ひし、と我は叫びぬ。今こそ見出さめ、といひ/\、畫工は又地上をかいさぐりぬ。
さる程に、地上なりし蝋燭は流れ畢りぬ。手に持ちたる蝋燭も、かなたこなたを搜し索《もと》むる忙しさに、流るゝこといよ/\早く、今は手の際まで燃え來りぬ。畫工の周章は大方ならざりき。そも無理ならず。若し絲なくして歩を運ばば、われ等は次第に深きところに入りて、遂に活路なきに至らむも計られざればなり。畫工は再び氣を勵まして探りしが、こたびも絲を得ざりしかば、力拔けて地上に坐し、我頸を抱きて大息つき、あはれなる子よ、とつぶやきぬ。われはこの詞を聞きて、最早家に還られざることぞ、とおもひければ、いたく泣きぬ。畫工にあまりに緊《きび》しく抱き寄せられて、我が縛られたる手はいざり落ちて地に達したり。我は覺えず埃の間に指さし入れしに、例の絲を撮《つま》み得たり。こゝにこそ、と我呼びしに、畫工は我手を※[#「てへん+參」、10−下段−6]《と》りて、物狂ほしきまでよろこびぬ。あはれ、われ等二人の命はこの絲にぞ繋ぎ留められける。
われ等の再び外に歩み出でたるときは、日の暖に照りたる、天の蒼く晴れたる、木々の梢のうるはしく緑なる、皆常にも増してよろこばしかりき。フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]は
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