又我に接吻して、衣のかくしより美しき銀の※[#「金+表」、10−下段−13]《とけい》を取り出し、これをば汝に取らせむ、といひて與へき。われはあまりの嬉しさに、けふの恐ろしかりし事共、はや悉《こと/″\》く忘れ果てたり。されど此事を得忘れ給はざるは、始終の事を聞き給ひし母上なりき。フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]はこれより後、我を伴ひて出づることを許されざりき。フラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]もいふやう。かの時二人の命の助かりしは、全く聖母《マドンナ》のおほん惠にて、邪宗のフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]が手には授け給はざる絲を、善く神に仕ふる、やさしき子の手には與へ給ひしなり。されば聖母の恩をば、身を終ふるまで、ゆめ忘るゝこと勿《なか》れといひき。
 フラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]がこの詞と、或る知人の戲《たはむれ》に、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]はあやしき子なるかな、うみの母をば愛するやうなれど、外の女をばことごとく嫌ふと見ゆれば、あれをば、人となりて後僧にこそすべきなれ、といひしことあるとによりて、母上はわれに出家せしめむとおもひ給ひき。まことに我は奈何《いか》なる故とも知らねど、女といふ女は側に來らるゝだに厭はしう覺えき。母上のところに來る婦人は、人の妻ともいはず、處女《をとめ》ともいはず、我が穉き詞にて、このあやしき好憎の心を語るを聞きて、いとおもしろき事におもひ做《な》し、強《し》ひて我に接吻せむとしたり。就中《なかんづく》マリウチア[#「マリウチア」に傍線]といふ娘は、この戲にて我を泣かすること屡《しば/\》なりき。マリウチア[#「マリウチア」に傍線]は活溌なる少女なりき。農家の子なれど、裁縫店にて雛形娘をつとむるゆゑ、華靡《はで》やかなる色の衣をよそひて、幅廣き白き麻布もて髮を卷けり。この少女フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]が畫の雛形をもつとめ、又母上のところにも遊びに來て、その度ごとに自らわがいひなづけの妻なりといひ、我を小き夫なりといひて、迫りて接吻せむとしたり。われ諾《うけが》はねば、この少女しば/\武を用ゐき。或る日われまた脅されて泣き出しゝに、さては猶|穉兒《をさなご》なりけり、乳房|啣《ふく》ませずては、啼き止むまじ、とて我を掻き抱かむとす。われ慌てゝ迯《に》ぐるを、少女はすかさず追ひすがりて、兩膝にて我身をしかと挾み、いやがりて振り向かむとする頭を、やう/\胸の方へ引き寄せたり。われは少女が※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]したる銀の矢を拔きたるに、豐なる髮は波打ちて、我身をも、露《あらは》れたる少女が肩をも掩《おほ》はむとす。母上は室の隅に立ちて、笑みつゝマリウチア[#「マリウチア」に傍線]がなすわざを勸め勵まし給へり。この時フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]は戸の片蔭にかくれて、竊《ひそか》に此群をゑがきぬ。われは母上にいふやう。われは生涯妻といふものをば持たざるべし。われはフラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]の君のやうなる僧とこそならめといひき。
 夕ごとにわが怪しく何の詞もなく坐したるを、母上は出家せしむるにたよりよき性《さが》なりとおもひ給ひき。われはかゝる時、いつも人となりたる後、金あまた得たらむには、いかなる寺、いかなる城をか建つべき、寺の主、城の主となりなん日には、「カルヂナアレ」の僧の如く、赤き衷甸《ばしや》に乘りて、金色に裝ひたる僕《しもべ》あまた隨へ、そこより出入せんとおもひき。或るときは又フラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]に聞きたる、種々なる獻身者の話によそへて、おのれ獻身者とならむをりの事をおもひ、世の人いかにおのれを責むとも、おのれは聖母のめぐみにて、つゆばかりも苦痛を覺えざるべしとおもひき。殊に願はしく覺えしは、フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]が故郷にたづねゆきて、かしこなる邪宗の人々をまことの道に歸依せしむる事なりき。
 母上のいかにフラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]と謀《はか》り給ひて、その日とはなりけむ。そはわれ知らでありしに、或る朝母上は、我に小《ちひさ》き衣を着せ、其上に白衣を打掛け給ひぬ。此白衣は膝のあたりまで屆きて、寺に仕ふる兒《ちご》の着るものに同じかりき。母上はかく爲立てゝ、我を鏡に向はせ給ひき。我は此日より尖帽宗《カツプチヨオ》の寺にゆきてちごとなり、火伴《なかま》の童達と共に、おほいなる弔香爐《つりかうろ》を提げて儀にあづかり、また贄卓《にへづくゑ》の前に出でゝ讚美歌をうたひき。總ての指圖をばフラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]なしつ。われは幾程もあらぬに、小き寺のうちに住み馴れて、贄卓に畫きたる神
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