の使の童の顏を悉く記《おぼ》え、柱の上なるうねりたる摸樣を識り、瞑目したるときも、醜き龍と戰ひたる、美しき聖ミケル[#「ミケル」に傍線]を面前に見ることを得るやうになり、鋪床《ゆか》に刻みたる髑髏の、緑なる蔦かづらにて編みたる環を戴けるを見てはさま/″\の怪しき思をなしき。(聖ミケル[#「ミケル」に傍線]が大なる翼ある美少年の姿にて、惡鬼の頭を踏みつけ、鎗をその上に加へたるは、名高き畫なり。)

   美小鬟、即興詩人

 萬聖祭には衆人《もろひと》と倶《とも》に骨龕《ほねのほくら》にありき。こはフラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]の嘗て我を伴ひて入りにしところなり。僧どもは皆經を誦《じゆ》するに、我は火伴《なかま》の童二人と共に、髑髏の贄卓《にへづくゑ》の前に立ちて、提香爐《ひさげかうろ》を振り動したり。骨もて作りたる燭臺に、けふは火を點したり。僧侶の遺骨の手足全きは、けふ額に新しき花の環を戴きて、手に露けき花の一束を取りたり。この祭にも、いつもの如く、人あまた集ひ來ぬ。歌ふ僧の「ミゼレエレ」(「ミゼレエレ、メイ、ドミネ」、主よ、我を愍《あはれ》み給へ、と唱へ出す加特力《カトリコオ》教の歌をいふ)唱へはじむるとき、人々は膝を屈《かゞ》めて拜したり。髑髏の色白みたる、髑髏と我との間に渦卷ける香の烟の怪しげなる形に見ゆるなどを、我は久しく打ち目守《まも》り居たりしに、こはいかに、我身の周圍《めぐり》の物、皆|獨樂《こま》の如くに※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り出しつ。物を見るに、すべて大なる虹を隔てゝ望むが如し。耳には寺の鐘|百《もゝ》ばかりも、一時に鳴るらむやうなる音聞ゆ。我心は早き流を舟にて下る如くにて、譬へむやうなく目出たかりき。これより後の事は知らず。我は氣を喪ひき。人あまた集ひて、鬱陶《うつたう》しくなりたるに、我空想の燃え上りたるや、この眩暈《めまひ》のもとなりけむ。醒めたるときは、寺の園なる檸檬《リモネ》の木の下にて、フラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]が膝に抱かれ居たり。
 わが夢の裡に見きといふ、首尾整はざる事を、フラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]を始として、僧ども皆神の業《わざ》なりといひき。聖《ひじり》のみたまは面前を飛び過ぎ給ひしかど、はるかなき童のそのひかり耀《かゞや》けるさまにえ堪へで、卒倒したるならむといひき。これより後、われは怪しき夢をみること頻なりき。そを母上に語れば、母上は又友なる女どもに傳へ給ひき。そが中には、われまことにさる夢を見しにはあらねど、見きと詐《いつは》りて語りしもありき。これによりて、我を神のおん子なりとする、人々の惑は、日にけに深くなりまさりぬ。
 さる程に嬉しき聖誕祭は近づきぬ。つねは山住ひする牧者の笛ふき(ピツフエラリ)となりたるが、短き外套着て、紐あまた下げ、尖りたる帽を戴き、聖母の像ある家ごとに音信《おとづ》れ來て、救世主の誕《うま》れ給ひしは今ぞ、と笛の音に知らせありきぬ。この單調にして悲しげなる聲を聞きて、我は朝な/\覺《さ》むるが常となりぬ。覺むれば説教の稽古す。おほよそ聖誕日と新年との間には、「サンタ、マリア、アラチエリ」の寺なる基督《キリスト》の像のみまへにて、童男童女の説教あること、年ごとの例なるが、我はことし其一人に當りたるなり。
 吾齡《わがよはひ》は甫《はじ》めて九つなるに、かしこにて説教せむこと、いとめでたき事なりとて、歡びあふは、母上、マリウチア[#「マリウチア」に傍線]、我の三人のみかは。わがありあふ卓の上に登りて、一たびさらへ聞かせたるを聞きし、畫工フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]もこよなうめでたがりぬ。さて其日になりければ、寺のうちなる卓の上に押しあげられぬ。我家のとは違ひて、この卓には毯《かも》を被ひたり。われはよその子供の如く、諳《そらん》じたるまゝの説教をなしき。聖母の心《むね》より血汐出でたる、穉き基督のめでたさなど、説教のたねなりき。我順番になりて、衆人に仰ぎ見られしとき、我胸跳りしは、恐ろしさゆゑにはあらで、喜ばしさのためなりき。これ迄の小兒の中にて、尤も人々の氣に入りしもの、即ち我なること疑なかりき。さるをわが後に、卓の上に立たせられたるは、小き女の子なるが、その言ふべからず優しき姿、驚くべきまでしほらしき顏つき、調《しらべ》清き樂に似たる聲音《こわね》に、人々これぞ神のみつかひなるべき、とさゝやきぬ。母上は、我子に優る子はあらじ、といはまほしう思ひ給ひけむが、これさへ聲高く、あの女の子の贄卓に畫ける神のみつかひに似たることよ、とのたまひき。母上は我に向ひて、かの女子の怪しく濃き目の色、鴉青《からすば》いろの髮、をさなくて又|怜悧《さかし》げなる顏、美しき紅葉《もみぢ》のや
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