うなる手などを、繰りかへして譽め給ふに、わが心には妬《ねた》ましきやうなる情起りぬ。母上は我上をも神のみつかひに譬へ給ひしかども。
鶯の歌あり。まだ巣ごもり居て、薔薇《さうび》の枝の緑の葉を啄《ついば》めども、今生ぜむとする蕾をば見ざりき。二月三月の後、薔薇の花は開きぬ。今は鶯これにのみ鳴きて聞かせ、つひには刺《はり》の間に飛び入りて、血を流して死にき。われ人となりて後、しば/\此歌の事をおもひき。されど「アラチエリ」の寺にては、我耳も未だこれを聞かず、我心も未だこれを會《ゑ》せざりき。
母上、マリウチア[#「マリウチア」に傍線]、その外女どもあまたの前にて、寺にてせし説教をくりかへすこと、しば/\ありき。わが自ら喜ぶ心はこれにて慰められき。されど我が未だ語り厭《あ》かぬ間に、かれ等は早く聽き倦《う》みき。われは聽衆を失はじの心より、自ら新しき説教一段を作りき。その詞は、まことの聖誕日の説教といはむよりは、寺の祭を敍したるものといふべき詞なりき。そを最初に聞きしはフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]なるが、かれは打ち笑ひ乍らも、そちが説教は、兎も角もフラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]が教へしよりは善し、そちが身には詩人や舍《やど》れる、といひき。フラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]より善しといへる詞は、わがためにいと喜ばしく、さて詩人とはいかなるものならむとおもひ煩ひ、おそらくは我身の内に舍れる善き神のみつかひならむと判じ、又夢のうちに我に面白きものを見するものにやと疑ひぬ。
母上は家を離れて遠く出で給ふこと稀なりき。されば或日の晝すぎ、トラステヱエル[#「トラステヱエル」に二重傍線](テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]河の右岸なる羅馬の市區)なる友だちを訪はむ、とのたまひしは、我がためには祭に往くごとくなりき。日曜に着る衣をきよそひぬ。中單《チヨキ》の代にその頃着る習なりし絹の胸當をば、針にて上衣の下に縫ひ留めき。領巾《えりぎぬ》をば幅廣き襞《ひだ》に摺《たゝ》みたり。頭には縫とりしたる帽を戴きつ。我姿はいとやさしかりき。
とぶらひ畢《をは》りて、家路に向ふころは、はや頗る遲くなりたれど、月影さやけく、空の色青く、風いと心地好かりき。路に近き丘の上には、「チプレツソオ」、「ピニヨロ」なんどの常磐樹《ときはぎ》立てるが、怪しげなる輪廓を、鋭く空に畫《ゑが》きたり。人の世にあるや、とある夕、何事もあらざりしを、久しくえ忘れぬやうに、美しう思ふことあるものなるが、かの歸路の景色、また然《さ》る類《たぐひ》なりき。國を去りての後も、テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]の流のさまを思ふごとに、かの夕の景色のみぞ心には浮ぶなる。黄なる河水のいと濃《こ》げに見ゆるに、月の光はさしたり。碾穀車《こひきぐるま》の鳴り響く水の上に、朽ち果てたる橋柱、黒き影を印して立てり。この景色心に浮べば、あの折の心輕げなる少女子《をとめご》さへ、扁鼓《ひらづゝみ》手に把《と》りて、「サルタレルロ」舞ひつゝ過ぐらむ心地す。(「サルタレルロ」の事をば聊《いさゝか》注すべし。こは單調なる曲につれて踊り舞ふ羅馬の民の技藝なり。一人にて踊ることあり。又二人にても舞へど、その身の相觸るゝことはなし。大抵男子二人、若くは女子二人なるが、跳《は》ねる如き早足にて半圈に動き、その間手をも休むることなく、羅馬人に産れ付きたる、しなやかなる振をなせり。女子は裳裾《もすそ》を蹇《かゝ》ぐ。鼓をば自ら打ち、又人にも打たす。其調の變化といふは、唯遲速のみなり。)サンタ、マリア、デルラ、ロツンダ[#「サンタ、マリア、デルラ、ロツンダ」に二重傍線]の街に來て見れば、こゝはまだいと賑はし。魚蝋《ぎよらふ》の烟を風のまにまに吹き靡《なび》かせて、前に木机を据ゑ、そが上に月桂《ラウレオ》の青枝もて編みたる籠に貨物《しろもの》を載せたるを飾りたるは、肉|鬻《ひさ》ぐ男、果《くだもの》賣る女などなり。剥栗《むきぐり》並べたる釜の下よりは、火※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]立昇りたり。賈人《あきうど》の物いひかはす聲の高きは、伊太利ことば知らぬ旅人聞かば、命をも顧みざる爭とやおもふらむ。魚賣る女の店の前にて、母上識る人に逢ひ給ひぬ。女子の間とて、物語長きに、店の蝋燭流れ盡むとしたり。さて連れ立ちて、其人の家の戸口までおくり行くに、街の上はいふもさらなり、「コルソオ」の大道さへ物寂しう見えぬ。されど美しき水盤を築きたるピアツツア、ヂ、トレヰイ[#「ピアツツア、ヂ、トレヰイ」に二重傍線]に曲り出でしときは、又賑はしきさま前の如し。
こゝに古き殿づくりあり。意《こゝろ》なく投げ疊《かさ》ねたらむやうに見ゆる、礎《いしずゑ》の間より、水流れ落ちて、月は恰
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