《あたか》も好し棟の上にぞ照りわたれる。河伯《うみのかみ》の像は、重き石衣《いしごろも》を風に吹かせて、大なる瀧を見おろしたり。瀧のほとりには、喇叭《らつぱ》吹くトリイトン[#「トリイトン」に傍線]の神二人海馬を馭したり。その下には、豐に水を湛《たゝ》へたる大水盤あり。盤を繞《めぐ》れる石級を見れば農夫どもあまた心地好げに月明の裡に臥したり。截《き》り碎きたる西瓜より、紅の露滴りたるが其傍にあり。骨組太き童一人、身に着けたるものとては、薄き汗衫《じゆばん》一枚、鞣革《なめしがは》の袴《はかま》一つなるが、その袴さへ、控鈕《ボタン》脱《はづ》れて膝のあたりに垂れかゝりたるを、心ともせずや、「キタルラ」の絃《いと》、おもしろげに掻き鳴して坐したり。忽ちにして歌ふこと一句、忽にして又|奏《かな》づること一節。農夫どもは掌《たなそこ》打ち鳴しつ。母上は立ちとまり給ひぬ。この時童の歌ひたる歌こそは、いたく我心を動かしつれ。あはれ此歌よ。こは尋常《よのつね》の歌にあらず。この童の歌ふは、目の前に見え、耳のほとりに聞ゆるが儘なりき。母上も我も亦曲中の人となりぬ。さるに其歌には韻脚あり、其調はいと妙《たへ》なり。童の歌ひけるやう。青き空を衾《ふすま》として、白き石を枕としたる寢ごゝろの好さよ。かくて笛手《ふえふき》二人の曲をこそ聞け。童は斯く歌ひて、「トリイトン」の石像を指したり。童の又歌ひけるやう。こゝに西瓜の血汐を酌める、百姓の一群は、皆戀人の上安かれと祈るなり。その戀人は今は寢て、聖《サン》ピエトロ[#「ピエトロ」に傍線]の寺の塔、その法皇の都にゆきし、人の上をも夢みるらむ。人々の戀人の上安かれと祈りて飮まむ。又世の中にあらむ限の、箭《や》の手開かぬ少女が上をも、皆安かれと祈りて飮まむ。(箭の手開かぬ少女とは、髮に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]す箭をいへるにて、處女の箭には握りたる手あり、嫁《とつ》ぎたる女の箭には開きたる手あり。)かくて童は、母上の脇を※[#「てへん+諂のつくり」、13−下−25]《ひね》りて、さて母御の上をも、又その童の鬚|生《お》ふるやうになりて、迎へむ少女の上をも、と歌ひぬ。母上善くぞ歌ひしと讚め給へば、農夫どもゝジヤコモ[#「ジヤコモ」に傍線]が旨《うま》さよ、と手打ち鳴してさゞめきぬ。この時ふと小き寺の石級の上を見しに、こゝには識る人ひとりあり。そは鉛筆取りて、この月明の中なる群を、寫さむとしたる畫工フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]なりき。歸途には畫工と母上と、かの歌うたひし童の上につきて、語り戲れき。その時畫工は、かの童を即興詩人とぞいひける。
 フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]の我にいふやう。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]聞け。そなたも即興の詩を作れ。そなたは固より詩人なり。たゞ例の説教を韻語にして歌へ。これを聞きて、我初めて詩人といふことあきらかにさとれり。まことに詩人とは、見るもの、聞くものにつけて、おもしろく歌ふ人にぞありける。げにこは面白き業なり。想ふにあながち難からむとは思はれず、「キタルラ」一つだにあらましかば。わが初の作の料《たね》になりしは、向ひなる枯肉鋪《ひものみせ》なりしこそ可笑《をか》しけれ。此家の貨物《しろもの》の排《なら》べ方は、旅人の目にさへ留まるやうなりければ、早くも我空想を襲ひしなり。月桂《ラウレオ》の枝美しく編みたる間には、おほいなる駝鳥の卵の如く、乾酪の塊懸りたり。「オルガノ」の笛の如く、金紙卷きたる燭は並び立てり。柱のやうに立てたる腸づめの肉の上には、琥珀の如く光を放ちて、「パルミジヤノ」の乾酪据わりたり。夕になれば、燭に火を點ずるほどに、其光は腸づめの肉と「プレシチウツトオ」(らかん)との間に燃ゆる、聖母像前の紅玻璃燈と共に、この幻《まぼろし》の境を照せり。我詩には、店の卓の上なる猫兒《ねこ》、店の女房と價を爭ひたる、若き「カツプチノ」僧さへ、殘ることなく入りぬ。此詩をば、幾度か心の内にて吟じ試みて、さてフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]に歌ひて聞かせしに、フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]めでたがりければ、つひに家の中に廣まり、又街を踰《こ》えて、向ひなるひものやの女房の耳にも入りぬ。女房聞きて、げに珍らしき詩なるかな、ダンテ[#「ダンテ」に傍線]の神曲《ヂヰナ、コメヂア》とはかゝるものか、とぞ稱《たゝ》へける。
 これを手始に、物として我詩に入らぬはなきやうになりぬ。我世は夢の世、空想の世となりぬ。寺にありて、僧の歌ふとき、提香爐《ひさげかうろ》を打ち振りても、街にありて、叫ぶ賈人《あきうど》、轟《とゞろ》く車の間に立ちても、聖母の像と靈水盛りたる瓶の下なる、小《ちさ》き臥床《ふしど》の中にありても、た
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