ゞ詩をおもふより外あらざりき。冬の夕暮、鍛冶の火高く燃えて、道ゆく百姓の立ち倚《よ》りて手を温むるとき、我は家の窓に坐して、これを見つゝ、時の過ぐるを知らず。かの鍛冶の火の中には、我空想の世の如き殊《こと》なる世ありとぞ覺えし。北山おろし劇《はげ》しうして、白雪街を籠め、廣こうぢの石の「トリイトン」に氷の鬚おふるときは、我喜限なかりき。憾《うら》むらくは、かゝる時の長からぬことよ。かゝる日には年ゆたかなる兆《きざし》とて、羊の裘《かはころも》きたる農夫ども、手を拍《う》ちて「トリイトン」のめぐりを踊りまはりき。噴き出づる水に雨は、晴れなんとする空にかゝれる虹の影映りて。

   花祭

 六月の事なりき。年ごとにジエンツアノ[#「ジエンツアノ」に二重傍線]にて執行せらるゝ、名高き花祭の期は近づきぬ。(ジエンツアノ[#「ジエンツアノ」に二重傍線]はアルバノ[#「アルバノ」に二重傍線]山間の小都會なり。羅馬と沼澤との間なる街道に近し。)母上とも、マリウチア[#「マリウチア」に傍線]とも仲好き女房ありて、かしこなる料理屋の妻となりたり。(伊太利の小料理屋にて「オステリア、エエ、クチイナ」と招牌《かんばん》懸けたる類なるべし。)母上とマリウチア[#「マリウチア」に傍線]とが此祭にゆかむと約したるは、數年前よりの事なれども、いつも思ひ掛けぬ事に妨げられて、えも果さゞりき。今年は必ず約を履《ふ》まむとなり。道遠ければ、祭の前日にいで立たむとす。かしまだちの前の夕には、喜ばしさの餘に、我眠の穩《おだやか》ならざりしも、理《ことわり》なるべし。
「ヱツツリノ」といふ車の門前に來しときは、日未だ昇らざりき。我等は直に車に上りぬ。是れより先には、われ未だ山に入りしことあらざりき。祭の事を思ひての喜に胸さわぎのみぞせられたる。身の邊《ほとり》なる自然と生活とを、人となりての後、當時の情もて觀《み》ましかば、我が作る詩こそ類なき妙品ならめ。街道の靜けさ、鐵物《かなもの》いかめしき閭門《りよもん》、見わたす限遙なるカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野邊に、物寂しき墳墓のところ/″\に立てる、遠山の裾を罩《こ》めたる濃き朝霧など、我がためにはこたび觀るべき、めでたき祕事の前兆の如くおもはれぬ。道の傍に十字架あり。そが上には枯髏《されこうべ》殘れり。こは辜《つみ》なき人を脅したる報《むくい》に、こゝに刑せられし強人《ぬすびと》の骨なるべし。これさへ我心を動すことたゞならざりき。山中の水を羅馬の市に導くなる、許多《あまた》の筧《かけひ》の數をば、はじめこそ讀み見むとしつれ、幾程もあらぬに、倦《う》みて思ひとゞまりつ。さて我は母上とマリウチア[#「マリウチア」に傍線]とに問ひはじめき。壞れ傾きたる墓標のめぐりにて、牧者が焚く火は何のためぞ。羊の群のめぐりに引きめぐらしたる網は何のためぞ。問はるゝ人はいかにうるさかりけむ。
 アルバノ[#「アルバノ」に二重傍線]に着きて車を下りぬ。こゝよりアリチア[#「アリチア」に二重傍線]を越す美しき道の程をば徒《かち》にてぞゆく。木犀草《もくせいさう》(レセダ)又はにほひあらせいとう(ヘイランツス)の花など道の傍に野生したり。緑なる葉の茂れる橄欖樹《オリワ》の蔭は涼しくして、憩ふ人待貌なり。遠き海をば、我も望み見ることを得き。十字架立ちたる山腹を過ぐるとき、少女子の一群笑ひ戲れて過ぐるに逢ひぬ。笑ひ戲れながらも、十字架に接吻することをば忘れざりき。アリチア[#「アリチア」に二重傍線]の寺の屋根、黒き橄欖の林の間に見えたるをば、神の使が戲《たはむれ》に据ゑかへたる聖《サン》ピエトロ[#「ピエトロ」に傍線]寺の屋根ならむとおもひき。索にて牽《ひ》かれたる熊の、人の如くに立ちて舞へるあり。人あまた其|周《めぐり》につどひたり。熊を牽ける男の吹く笛を聞けば、こは羅馬に來て聖母の前に立ちて吹く、「ピツフエラリ」が曲におなじかりき。男に軍曹と呼ばるゝ猿あり。美しき軍服着て、熊の頭の上、脊の上などにて翻筋斗《とんぼがへり》す。われは面白さにこゝに止らむとおもふほどなりき。ジエンツアノ[#「ジエンツアノ」に二重傍線]の祭も明日のことなれば、止まればとて遲るゝにもあらず。されど母上は早く往きて、友なる女房の環飾編むを助けむとのたまへば、甲斐なかりき。
 幾程もなく到り着きて、アンジエリカ[#「アンジエリカ」に傍線]が家をたづね得つ。ジエンツアノ[#「ジエンツアノ」に二重傍線]の市にて、ネミ[#「ネミ」に二重傍線]といふ湖に向へる方にありき。家はいとめでたし。壁よりは泉湧き出でゝ、石盤に流れ落つ。驢馬あまたそを飮まむとて、めぐりに集ひたり。
 料理屋に立ち入りて見るに賑しき物音我等を迎へたり。竈《かまど》には火燃えて、鍋の裡なる食は煮え
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