ネ圓なる四層のたてものにして、「トラヱルチイノ」石もてこれを造る。層ごとに組かたを殊にす。「ドロス」、「イオン」、「コリントス」の柱の式皆備はりたり。基督生れてより七十餘年の後、ヱスパジアヌス[#「ヱスパジアヌス」に傍線]帝の時、この工事を起しつ。これに役せられたる猶太教徒の數一萬二千人とぞ聞えし。櫛形の迫持《せりもち》八十ありて、これをめぐれば千六百四十一歩。平地の周匝《めぐり》には八萬六千坐を設け、頂に二萬人を立たしむべかりきといふ。今はこゝにて基督教の祭儀を執行せしむ。バイロン[#「バイロン」に傍線]卿詩あり。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから2字下げ]
この場《には》のあらん限は
内日《うちひ》刺《さ》す都もあらん
このにはのなからん時は
うちひさす都もあらじ
うちひさす都あらずば
あはれ/\この世間《よのなか》もあらじとぞおもふ
[#ここで字下げ終わり]
頭の上にあたりて物音こそすれ。見あぐれば物の動くやうにこそおもはるれ。影の如き人ありて、椎《つち》を揮《ふる》ひ石をたゝむが如し。その人を見れば、色蒼ざめて黒き髯長く生ひたり。これ話に聞きし猶太教徒なるべし。積み疊ぬる石は見る見る高くなりぬ。「コリゼエオ」は再び昔のさまに立ちて、幾千萬とも知られぬ人これに滿ちたり。長き白き衣着たるヱスタ[#「ヱスタ」に傍線]の神の巫女《みこ》あり。帝王の座も設けられたり。赤條々《あかはだか》なる力士の血を流せるあり。低き廊の方より叫ぶ聲、吼《ほ》ゆる聲聞ゆ。忽ち虎豹の群ありて我前を奔《はし》り過ぐ。我はその血ばしる眼を見、その熱き息に觸れたり。あまりのおそろしさに、かの柱頭にひたと抱きつきて、聖母の御名をとなふれども、物騷がしさは未だ止まず。この怪しき物共の群《むらが》りたる間にも、幸なるかな、大なる十字架の屹《きつ》として立てるあり。こはわがこゝを過ぐるごとに接吻したるものなり。これを目當に走り寄りて、緊《しか》と抱きつくほどに、石落ち柱倒れ、人も獸もあらずなりて、我は復《ま》た人事をしらず。
人心地つきたる時は、熱すでに退きたれど、身は尚いたく疲れて、われはかの木づくりの十字架の下に臥したり。あたりを見るに、怪しき事もなし。夜は靜にして、高き石垣の上には鶯鳴けり。われは耶蘇をおもひ、その母をおもひぬ。わが母上は今あらねば、これよりは耶蘇の母ぞ我母なるべき。われは十字架を抱きて、その柱に頭を寄せて眠りぬ。
幾時をか眠りけん。歌の聲に醒《さ》むれば、石垣の頂には日の光かゞやき、「カツプチノ」僧二三人蝋燭を把《と》りて卓より卓に歩みゆきつゝ、「キユリエ、エレイソン」(主よ、憫《あはれ》め)と歌へり。僧は十字架に來り近づきぬ。俯して我面を見るものは、フラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]なりき。わが色蒼ざめてこゝにあるを訝《いぶか》りて、何事のありしぞと問ひぬ。われはいかに答へしか知らず。されどペツポ[#「ペツポ」に傍線]のをぢの恐ろしさを聞きたるのみにて、僧は我上を推し得たり。我は衣の袖に縋りて、我を見棄て給ふなと願ひぬ。連なる僧もわれをあはれと思へる如し。かれ等は皆我を知れり。われはその部屋をおとづれ、彼等と共に寺にて歌ひしことあり。
僧は我を伴ひて寺に歸りぬ。壁に木板の畫を貼《てう》したる房に入り、檸檬《リモネ》樹の枝さし入れたる窓を見て、われはきのふの苦を忘れぬ。フラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]は我をペツポ[#「ペツポ」に傍線]が許へは還《かへ》さじと誓ひ給へり。同寮の僧にも、このちごをば蹇《あしな》へたる丐兒《かたゐ》にわたされずとのたまふを聞きつ。
午のころ僧は莱※[#「くさかんむり/服」、第4水準2−86−29]《あほね》、麪包《パン》、葡萄酒を取り來りて我に飮啖《いんたん》せしめ、さて容《かたち》を正していふやう。便《びん》なき童よ。母だに世にあらば、この別《わかれ》はあるまじきを。母だに世にあらば、この寺の内にありて、尊き御蔭を被り、安らかに人となるべかりしを。今は是非なき事となりぬ。そちは波風荒き海に浮ばんとす。寄るところは一ひらの板のみ。血を流し給へる耶蘇、涙を墮《おと》し給ふ聖母をな忘れそ。汝が族《うから》といふものは、その外にあらじかし。此詞を聞きて、われは身を震はせ、さらば我をばいづかたにか遣らんとし給ふと問ひぬ。これより僧は、われをカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野なる牧者夫婦にあづくること、二人をば父母の如く敬ふべき事、かねて教へおきし祈祷の詞を忘るべからざる事など語り出でぬ。夕暮にマリウチア[#「マリウチア」に傍線]と其父とは寺門迄迎へに來ぬ。僧はわれを伴ひ出でゝ引き渡しつ。この牧者のさまを見るに、衣はペツポ[#「ペツポ」に傍線]のをぢのより舊《ふ》り
前へ
次へ
全169ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング