れ、人の目に立つべき創つけて、我等が群に入れよといふ。をぢ。否※[#二の字点、1−2−22]母親だに迂闊ならずば、今日を待たず、善き金の蔓となすべかりしものを。神の使のやうなる善き聲なり。法皇の伶人には恰好なる童なり。人々は我齡を算へ、我がために作《な》さでかなはぬ事を商量したり。その何事なるかは知らねど、善きことにはあらず。奈何《いかに》してこゝをば※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《のが》れむ。われは穉心《をさなごころ》にあらん限りの智慧を絞り出しつ。固《もと》よりいづこをさして往かんと迄は、一たびも思ひ計らざりき。鋪板《ゆか》を這ひて窓の下にいたり、木片《きのきれ》ありしを踏臺にして窓に上りぬ。家は皆戸を閉ぢたり。街には人行絶えたり。※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]るゝには飛びおるゝより外に道なし。されどそれも恐ろし。とつおいつする折しも、この挾き間の戸ざしに手を掛くる如き音したれば、覺えず窓縁《まどぶち》をすべりおちて、石垣づたひに地に墜《お》ちぬ。身は少し痛みしが、幸にこゝは草の上なりき。
 跳ね起きて、いづくを宛《あて》ともなく、狹く曲りたる巷《ちまた》を走りぬ。途にて逢ひたるは、杖もて敷石を敲《たゝ》き、高聲にて歌ふ男一人のみなりき。しばらくして廣きところに出でぬ。こゝは見覺あるフオヽルム、ロマアヌム[#「フオヽルム、ロマアヌム」に二重傍線]なりき。常は牛市と呼ぶところなり。

   露宿、わかれ

 月はカピトリウム[#「カピトリウム」に二重傍線](羅馬七陵の一)の背後を照せり。セプチミウス・セヱルス[#「セプチミウス・セヱルス」に傍線]帝の凱旋門に登る磴《いしだん》の上には、大外套被りて臥したる乞兒《かたゐ》二三人あり。古《いにしへ》の神殿のなごりなる高き石柱は、長き影を地上に印せり。われはこの夕まで、日暮れてこゝに來しことなかりき。鬼氣は少年の衣を襲へり。歩をうつす間、高草の底に横はりたる大理石の柱頭に蹶《つまづ》きて倒れ、また起き上りて帝王堡《ていわうはう》の方を仰ぎ見つ。高き石がきは、纏《まつ》はれたる蔦かづらのために、いよゝおそろし氣《げ》なり。青き空をかすめて、ところ/″\に立てるは、眞黒《まくろ》におほいなるいとすぎの木なり。毀《こぼ》れたる柱、碎けたる石の間には、放飼《はなしがひ》の驢《うさぎうま》あり、牛ありて草を食《は》みたり。あはれ、こゝには猶我に迫り、我を窘《くるし》めざる生物こそあれ。
 月あきらかなれば、物として見えぬはなし。遠き方より人の來り近づくあり。若し我を索《もと》むるものならば奈何せん。われは巨巖の如くに我前に在る「コリゼエオ」に匿《かく》れたり。われは猶きのふ落《らく》したる如き重廊の上に立てり。こゝは暗くして且《また》冷《ひやゝか》なり。われは二あし三あし進み入りぬ。されど谺響《こだま》にひゞく足音《あのと》おそろしければ、徐《しづか》に歩を運びたり。先の方には焚火する人あり。三人の形明に見ゆ。寂しきカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野邊を夜更けては過ぎじとて、こゝに宿りし農夫にやあらん。さらずばこゝを戍《まも》る兵土にや。はた盜《ぬすびと》にや。さおもへば打物の石に觸るゝ音も聞ゆる如し。われは却歩《あとしざり》して、高き圓柱の上に、木梢《こずゑ》と蔦蘿《つたかづら》とのおほひをなしたるところに出でぬ。石がきの面をばあやしき影往來す。處々に抽《ぬ》け出でたる截石《きりいし》の將《まさ》に墜《おち》んとして僅に懸りたるさま、唯だ蔓草にのみ支へられたるかと疑はる。
 上の方なる中の廊を行く人あり。旅人の此古跡の月を見んとて來ぬるなるべし。その一群のうちには白き衣着たる婦人あり。案内者に續松《ついまつ》とらせて行きつゝ、柱しげき間に、忽ち顯《あらは》れ忽ち隱るゝ光景今も見ゆらん心地す。
 暗碧なる夜は大地を覆ひ來たり、高低さまざまなる木は天鵝絨《びろうど》の如き色に見ゆ。一葉ごとに夜氣を吐けり。旅人のかへり行くあとを見送りて、ついまつの赤き光さへ見えずなりぬる時、あたりは闃《げき》として物音絶えたり。この遺址《ゐし》のうちには、耶蘇教徒が立てたる木卓あまたあり。その一つの片かげに、柱頭ありて草に埋もれたれば、われはこれに腰掛けつ。石は氷の如く冷なるに、我頭の熱さは熱を病むが如くなりき。寐られぬまゝに思ひ出づるは、この「コリゼエオ」の昔語なり。猶太《ユダヤ》教奉ずる囚人が、羅馬の帝《みかど》の嚴しき仰によりて、大石を引き上げさせられしこと、この平地にて獸を鬪はせ、又人と獸と相|搏《う》たせて、前低く後高き廊の上より、あまたの市民これを觀きといふ事、皆我當時の心頭に上りぬ。
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 そも/\この「コリゼエオ」は
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