スるべし。塵を蒙り、裂けやぶれたる皮靴を穿《は》き、膝を露《あらは》し、野の花を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]したる尖帽《せんばう》を戴けり。かれは跪《ひざまづ》きて僧の手に接吻し、我を顧みて、かゝる美しき童なれば、我のみかは、妻も喜びてもり育てんと誓ひぬ。マリウチア[#「マリウチア」に傍線]は財嚢を父にわたしつ。われ等四人はこれより寺に入りて、人々皆默祷す。われも共に跪きしが、祈祷の詞は出でざりき。我眼は久しき馴染《なじみ》の諸像を見たり。戸の上高きところを舟に乘りてゆき給ふ耶蘇、贄卓《にへづくゑ》の神の使、美しきミケル[#「ミケル」に傍線]はいふもさらなり、蔦かづらの環を戴きたる髑髏《どくろ》にも暇乞しつ。別に臨みて、フラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]は手を我頭上に加へ、晩餐式施行法(モオドオ、ヂ、セルヰレ、ラ、サンクタ、メツサア)と題したる、繪入の小册子を贈《おく》りぬ。
既に別れて、ピアツツア、バルベリイニ[#「ピアツツア、バルベリイニ」に二重傍線]の街を過ぐとて、仰いで母上の住み給ひし家をみれば、窓といふ窓悉く開け放たれたり。新しきあるじを待つにやあらん。
曠野《あらの》
羅馬城のめぐりなる大曠野《だいくわうや》は、今我すみかとなりぬ。古跡をたづね、美術を究めんと、初てテヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]河畔の古都に近づくものは、必ずこの荒野に歩をとゞめて、これを萬國史の一ひらと看做《みな》すなり。起《た》てる丘、伏したる谷、おほよそ眼に觸るゝもの、一つとして史册中の奇怪なる古文字にあらざるなし。畫工の來るや、古の水道のなごりなる、寂しき櫛形|迫持《せりもち》を寫し、羊の群を牽《ひき》ゐたる牧者を寫し、さてその前に枯れたる薊《あざみ》を寫すのみ。歸りてこれを人に示せば、看るもの皆めでくつがへるなるべし。されど我と牧者とは、おの/\其情を殊にせり。牧者は久しくこゝに住ひて、この焦《こが》れたる如き草を見、この熱き風に吹かれ、こゝに行はるゝ疫癘《えやみ》に苦められたれば、唯だあしき方、忌まはしき方のみをや思ふらん。我は此景に對して、いと面白くぞ覺えし。平原の一面たる山々の濃淡いろいろなる緑を染め出したる、おそろしき水牛、テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]の黄なる流、これを溯《さかのぼ》る舟、岸邊を牽かるゝ軛《くびき》負《お》ひたる牧牛、皆目新しきものゝみなりき。われ等は流に溯りて行きぬ。足の下なるは丈低く黄なる草、身のめぐりなるは莖長く枯れたる薊のみ。十字架の側を過ぐ。こは人の殺されたるあとに立てしなり。架《か》に近きところには、盜人の屍の切り碎きて棄てたるなり。隻腕《かたうで》、隻脚《かたあし》は猶その形を存じたり。それさへ心を寒からしむるに、我|栖《すみか》はこゝより遠からずとぞいふなる。
此家は古の墳墓の址《あと》なり。この類《たぐひ》の穴こゝらあれば、牧者となるもの大抵これに住みて、身を戍《まも》るにも、又身を安んずるにも、事足れりとおもへるなり。用なき窪《くぼみ》をば填《う》め、いらぬ罅《すきま》をば塞ぎ、上に草を葺《ふ》けば、家すでに成れり。我牧者の家は丘の上にありて兩層あり。隘《せば》き戸口なるコリントス[#「コリントス」に二重傍線]がたの柱は、當初墳墓を築きしときの面影なるべし。石垣の間なる、幅廣き三條の柱は、後の修繕ならん。おもふに中古は砦《とりで》にやしたりけん。戸口の上に穴あり。これ窓なるべし。屋根の半は葦簾《よしすだれ》に枯枝をまじへて葺き、半は又枝さしかはしたる古木をその儘に用ゐたるが、その梢よりは忍冬《にんどう》(カプリフオリウム)の蔓長く垂れて石垣にかゝりたり。
こゝが家ぞ、と途すがら一言も物いはざりしベネデツトオ[#「ベネデツトオ」に傍線]告げぬ。われは怪しげなる家を望み、またかの盜人の屍をかへり見て、こゝに住むことか、と問ひかへしつ。翁《おきな》にドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]、ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]と呼ばれて、荒※[#「栲」のおいがしらの下が「丁」、第4水準2−14−59]《あらたへ》の汗衫《はだぎ》ひとつ着たる媼《おうな》出《い》でぬ。手足をばことごとく露《あらは》して髮をばふり亂したり。媼は我を抱き寄せて、あまたゝび接吻す。夫の詞少きとはうらうへにて、この媼はめづらしき饒舌《ぜうぜつ》なり。そなたは薊生ふる沙原より、われ等に授けられたるイスマエル[#「イスマエル」に傍線](亞伯拉罕《アブラハム》の子)なるぞ。されどわが饗應《もてなし》には足らぬことあらせじ。天上なる聖母に代りて、われ汝を育つべし。臥床《ふしど》はすでにこしらへ置きぬ。豆も烹《に》えたるべし。ベネデツトオ[#「ベネデツトオ」に傍線
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