トボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]の館《たち》にゆきぬ。
 フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]の君はやさしく我をもてなし給ひ、フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君は又母の如くいたはり給ひぬ。姫君にも引きあはせ給ひぬ。名をばフラミニア[#「フラミニア」に傍線]といふ。目の美しく光ある穉子なり。我に接吻し、我側に來居たるが、まだ二分時ならぬに、はや我に昵《なじ》み給へり。かき抱きて間のうちをめぐり、可笑《をか》しき小歌うたひて聞せしかば、面白しと打笑ひ給ひぬ。館は微笑みつゝ。穉き尼君を世の中の少女の樣になせそ。法皇の手づから授けられし壻君《むこぎみ》をば、今より胸にをさめたるをとのたまふ。げにこの姫君は、白かねもて造りたる十字架に基督の像つきたるを、鎖もて胸に懸け給へり。(伊太利の俗、尼寺に入れんと定めたる女兒をば、夙《はや》くより小尼公《アベヂツサ》など呼ぶことあり。)夫婦の君は婚禮の初、喜のあまりに始て生るべき子をば、み寺に參らせんと誓ひ給ひしなり。勢ある家の事とて、羅馬に名高き尼寺の首座をば、今よりこの姫君の爲めに設けおけりとぞ。さればこの君には、苟且《かりそめ》の戲にも法《のり》の掟《おきて》に背かぬやうなることのみをぞ勸め參らせける。小尼公は偶人《にんぎよう》いれたる箱取り出でゝ、中なる穉き耶蘇の像、またあまたの白衣きたる尼の像を示し給ふ。さて尼の人形を二列に立てて、日ごとにかく歩ませて供養のにはに連れゆくとのたまひぬ。又尼どもは皆聲めでたく歌ひて、穉き耶蘇を拜めりとのたまひぬ。こは皆|保姆《うば》が教へつるなり。我は畫かきて小尼公を慰めき。長き※[#「曷+毛」、37−下段−28]衣《けおりごろも》を着て、噴水のトリイトン[#「トリイトン」に傍線]の神のめぐりに舞ふ農夫、一人の匍匐《はらば》ひたるが上に一人の跨《またが》りたる侏儒《プルチネルラ》抔《など》、いたく姫君の心にかなひて、始はこれに接吻し給ひしが、後には引き破りて棄て給ひぬ。兎角する程に、はや常に眠り給ふ時過ぎぬとて、うば抱きて入りぬ。
 夫婦の君は我上を細《こまか》に問ひて、今より後も助にならんと契り、こゝに留らん間は日ごとに訪へかしとのたまひぬ。カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野邊に住める媼が事を語り出で給ひしかば、我は春秋の天氣好き折、かしこに尋ねゆきて、我|臥床《ふしど》の跡を見、媼が經卷|珠數《じゆず》と共に藏したる我畫|反古《ほご》を見、また爐の側にて燒栗を噛みつゝ昔語せばやとおもふ心を聞え上げぬ。暇乞《いとまごひ》して出でんとせしとき、夫人は館を顧みてのたまふやう。學校は智育に心を用ゐると覺ゆれど、作法の末まではゆきとゞかぬなるべし。この子の禮《ゐや》するさまこそ可笑しけれ。世の中に出でん後は、これをも忽《ゆるがせ》にすべからず。されど、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ、心をだに附けなば、そはおのづから直るべきものぞ。
 學校に還らんとて館を出でしは、まだ宵の程なりしが、街はいと暗かりき。羅馬の市に竿燈《かんとう》を點《つ》くるは近き世の事にて、其の頃はまださるものなかりしなり。狹き枝みちに歩み入れば、平ならざる道を照すもの唯だ聖母の像の御前《みまへ》に供へたる油燈のみなり。われは心のうちに晝の程の事どもを思ひめぐらしつゝ、徐《しづか》にあゆみを運びぬ。固より咫尺《しせき》の間もさやかには見えねば、忽ち我手に觸るゝものあるに驚きて、われはまだ何とも思ひ定めぬ時、耳慣れたる聲音にて、奇怪なる人かな、目をさへ撞《つ》きつぶされなば、道はいよ/\見えずやならんといふ。われは喜のあまりに聲高く叫びて、さてはベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]なるよ、嬉くも逢ひけるものかなといひぬ。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]か、可笑き再會もあるものよと、友は我を抱きたり。さるにても何處よりか來し。忍びて訪ふところやある。そは汝に似合はしからず。されど我に見現されぬれば是非なし。例の獄丁はいづくに居る。學校よりつけたる道づれは。我。否けふはひとりなり。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]。ひとりとは面白し。汝も天晴《あつぱれ》なる少年なり。我と共に法皇の護衞に入らずや。
 我は恩人夫婦のこゝに來ませし喜を告げしに、吾友も亦喜びぬ。これよりは足の行くに任せて、暗路を辿りつゝ、別れての後の事どもを語りあひぬ。

   猶太《ユダヤ》の翁

 途すがらベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]の云ふやう。我は今こそ浮世の樣をも見ることを得つれ。そなた等が世にあるは、唯だ世にありといふ名のみにて、まだ襁褓《むつき》の中を出でざるにひとし。冷なる學校の榻《たふ》に坐して、黴《かび》の生《は》えたるハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダア
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