ヨ出來ぬるなるべし)と呼ぶ人あり。窓の前にて、美しく猛き若駒に首を昂《あ》げさせ、手を軍帽に加へて我に禮を施し、振り返りつゝ馳せ去りしは、法皇の禁軍《このゑ》なる士官なりき。嗚呼、我はその顏を見識りたり。これわがベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]なり。わが幸あるベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]なり。
我生活は今彼に殊なること幾何《いくばく》ぞ。われは深くこれを思ふことを好まず。われは傍なる帽を取りて、目深《まぶか》にかぶり、惡魔に逐はるゝ如く、學校の門を出でぬ。おほよそ「ジエスヰタ」學校、「プロパガンダ」學校、その外この教國の學校生徒は、外に出づるとき、おのれより年|長《た》けたる、若《もし》くはおのれと同じ齡なる、同學のものに伴はるゝを法とす。稀に獨り行くには、必ず許可を請ふことなり。こは誰も知りたる掟なるを、われはこの時少しも思ひ出でざりき。老いたる番僧はわが出づるを見つれど、許可を得たるものとや思ひけん、我を誰何《とが》めざりき。
めぐりあひ、尼君
大路《おほぢ》に出づれば馬車ひきもきらず。羅馬の人を載せたるあり、外國の客を載せたるあり。往くあり、還るあり。こは都の習なる夕暮の逍遙《あそび》乘《のり》といふものにいでたる人々なるべし。銅版畫を挂《か》けつらねたる技藝品鋪の前には、人あまた立てり。その衣にまつはれて錢を得んとするは、乞兒《かたゐ》の群なり。されば車の間を馳せぬくることを厭ひては、こゝを行くべくもあらず。我が車の隙を覗《うかゞ》ひて走りぬけんとしたる時「ボン、ジヨオルノオ、アントニオ」(吉日《よきひ》をこそ、アントニオ[#「アントニオ」に傍線])と呼ぶは、むかし聞き慣れたる忌《いま》はしき聲なり。見卸せば、ペツポ[#「ペツポ」に傍線]のをぢ例の木履《きぐつ》を手に穿《は》きて、地上にすわり居たり。この人にかく近づきたることは、この年頃絶てなかりき。西班牙《スパニア》の磴《いしだん》を避けてとほり、道にて逢ふときは面を掩《おほ》ひて知らしめず、式の日などに諸生の群にありてこれに近づくときは、友の身を盾に取りて見付けられぬ心がまへしたりき。ペツポ[#「ペツポ」に傍線]は我|裳裾《もすそ》を握りて離たずしていふやう。血を分けたるアントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。そちがをぢなるペツポ[#「ペツポ」に傍線]を知らぬ人のやうになあしらひそ。尊きジユウゼツペ[#「ジユウゼツペ」に傍線](ペツポ[#「ペツポ」に傍線]はこの名を約《つゞ》めたるなり)の上を思はゞ、我名を忘るゝことなからん。暫く見ぬ隙に、おとなびたることよ。かく親しく物言はるゝ程に、道行く人は怪みて我面を見たり。我は放ち給へと叫びて裾を引けども、ペツポ[#「ペツポ」に傍線]は容易《たやす》く手をゆるめず。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。共に驢《うさぎうま》に乘りし日の事を忘れしか。善き兒なるかな。今は丈高き馬に乘れば、最早我を顧みざるならん。母の同胞《はらから》の西班牙の磴にあるを訪はざるならん。そちも我手に接吻せしことあり。そちも我宿の一束の藁を敷寢せしことあり。昔をわすれなせそ。かくかきくどかるゝうるさゝに、我は力を極めて裾ひきはなち、車の間をくゞりぬけて、横街に馳せ入りぬ。
我胸は跳《をど》れり。こは驚のためのみにはあらず、辱《はづかしめ》のためなりき。我はをぢがもろ人の前に我を辱めたりとおもひき。されど此心は久しからずして止み、これに代りて起りしは、これよりも苦しき情なりき。をぢが詞は一つとして僞ならず。われはまことにペツポ[#「ペツポ」に傍線]が一人の甥なり。わがこれに對して恩すくなかりしは、そも/\何故ぞ。若し餘所に見る人なくば、我は昔の如くをぢの手に接吻せしならん。さるを今かく殘忍なる振舞せしは、わが罪深き名譽心にあらずや。われは自ら愧《は》ぢ、又神に恥ぢて、我胸は燃ゆる如くなりき。
この時|聖《サン》アゴスチノ[#「アゴスチノ」に傍線]寺の「アヱ、マリア」の鐘の聲響きしかば、われは懺悔せんとて寺の内に入りぬ。高き穹窿の下は暗くして人影絶えたり。卓の上なる蝋燭は僅に燃ゆれども光なかりき。われは聖母の前に伏し沈みて、心の重荷をおろさんとしつ。忽ち我側にありて、我名を呼ぶ人あり。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]の君よ。館《やかた》も御奧もフイレンツエ[#「フイレンツエ」に二重傍線]より歸り來ませり。かしこにて設け給ひし穉《をさな》き姫君をも伴ひ給ひぬ。今より共に往きて喜をのべ給はずやといふ。寺の内の暗さに見えざりしが、かく言はれてその人を見れば、我恩人の館なる門者《かどもり》の妻にてフエネルラ[#「フエネルラ」に傍線]といふものなりき。年久しく相見ざりし人々に逢はせんといふが嬉しさに、われは共に足を早め
前へ
次へ
全169ページ中36ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング