_ア」に傍線]が講釋に耳傾けんは、あまりに甲斐なき事ならずや。見よ、我が馬に騎《の》りて市《まち》を行くを。美しき少女達は、燃ゆる如き眼《ま》なざしして、我を仰ぎ瞻《み》るなり。わが貌《かほばせ》は醜からず。われには號衣《ウニフオルメ》よく似合ひたり。此街の暗きことよ、汝は我號衣を見ること能はざるべし。我が新に獲たる友は、善く我を導けり。彼等は汝が如き窮措大《きうそだい》めきたる男にあらず。我等は御國を祝ひて盞を傾け、又折に觸れてはおもしろき戲をもなせり。されど其戲をもの語らんは、汝が耳の聽くに堪へざるところならん。そなたの世を渡るさまをおもへば、男に生れたる甲斐なくぞおもはるゝ。我はこの二三月が程に十年の經驗をなしたり。我はわが少年の血氣を覺えたり。そは我血を湧し、我胸を張らしむ。我は人生の快樂を味へり。我唇はまだ燃え、我咽はまだ痒《かゆ》きに、我身はこれを受用すること醉ひたる人の水を飮むらんやうなり。斯く説き聞せられて、我はいつもながら氣|沮《はゞ》みて聲も微《かすか》に、さらば君が友だちといふはあまり善き際《きは》にはあらぬなるべしと答へき。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]はこらへず。善き際にあらず、とは何をか謂ふ。我に向ひて道徳をや説かんとする。吾友だちは汝にあしさまに言はるべきものにはあらず。吾友だちは羅馬にあらん限の貴き血統にこそあなれ。われ等は法皇の禁軍《このゑ》なり。縱《たと》ひわづかの罪ありとも、そは法皇の免除するところなり。われも學校を出でし初には、汝が言ふ如き感なきにあらざりしが、われは敢て直ちにこれを言はず、敢て友等に知らしめざりき。われは彼輩《かのともがら》のなすところに傚《なら》ひき。そは我意志の最も強き方に從ひたるのみ。我意馬を奔《はし》らしめて、その往くところに任するときは、我はかの友だちに立ち後《おく》るゝ憂なかりしなり。されど此間我胸中には、猶少しの寺院教育の滓《かす》殘り居たれば、我も何となく自ら安《やすん》ぜざる如き思をなすことありき。我はをり/\此滓のために戒《いまし》められき。我は生れながらの清白なる身を涜《けが》すが如くおもひき。かゝる懸念は今や名殘《なごり》なく失せたり。今こそ我は一人前の男にはなりたるなれ。かの教育の滓を身に帶びたる限は、その人小兒のみ、卑怯者のみ。おのれが意志を抑へ、おのれが欲するところを制して、獨り鬱々として日を送らんは、その卑怯ものゝ舉動ならずや、餘に饒舌《しやべ》りて途のついでをも顧みざりしこそ可笑しけれ。こゝはキヤヰカ[#「キヤヰカ」に傍線]の前なり。類《たぐひ》なき酒家《オステリア》にて、羅馬の藝人どもの集ふところなり。我と共に來よ。切角の邂逅《めぐりあひ》なれば、一瓶の葡萄酒を飮まん。この家のさまの興あるをも見せまほしといふ。われ。そは思ひもよらぬ事なり。若し學校の人々、わが禁軍《このゑ》の士官と倶《とも》に酒店にありしを聞かば奈何。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]。現《げ》に酒一杯飮まんは限なき不幸なるべし。されど試に入りて見よ。外國の藝人等が故郷の歌をうたふさまいと可笑し。獨逸語あり。法朗西《フランス》語あり。英吉利《イギリス》語あり。またいづくの語とも知られぬあり。これ等を聞かんも興あるべし。われ。否、君には酒一杯飮まんこと常の事なるべけれど、我は然らず。強ひて伴はんことは君が本意にもあらざるべし。斯く辭《いろ》ふほどに、傍なる細道の方に、許多《あまた》の人の笑ふ聲、喝采する聲いと賑はしく聞えたり。われはこれに便を得て、友の臂《ひぢ》を把《と》りていはく。見よ、かしこに人あまた集りたるは何事にかあらん。想ふに聖母の御龕《みほごら》の下にて手品使ふものあるならん。我等も往きてこそ觀め。
我等が往方《ゆくて》を塞ぎたるは、極めて卑き際《きは》の老若男女なりき。この人々は聖母のみほごらの前にて長き圈《わ》をなし、老いたる猶太《ユダヤ》教徒一人を取り卷きたり。身うち肥えふとりて、肩幅いと廣き男あり。手に一條の杖を持ちたるが、これを翁《おきな》が前に横《よこた》へ、翁に跳《をど》り超えよと促すにぞありける。
凡そ羅馬の市には、猶太教徒みだりに住むことを許されず。その住むべき廓《くるわ》をば嚴しく圍みて、これを猶太街《ゲツトオ》といふ。(我國の穢多まちの類なるべし。)夕暮には廓の門を閉ぢ、兵士を置きて人の出入することを許さず。こゝに住める猶太教徒は、歳に一たび仲間の年寄をカピトリウム[#「カピトリウム」に二重傍線]に遣り、來ん年もまた羅馬にあらんことを許し給はゞ、謝肉祭《カルネワレ》の時の競馬《くらべうま》の費用《ものいり》をも例の如く辨《わきま》へ、又定の日には加特力《カトリコオ》教徒の寺に往きて、宗旨がへの説法をも聽くべし、と願ふ
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