フ如くなりぬ。
 學校の書生|衆《おほ》しといへども、その家世、その才智、並に人に優れたるは、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]といふ人なりき。遊戲に日をおくるは咎むべきならねど、あまりに情を放ちて自ら恣《ほしいまゝ》にするさまも見えき。或ときは四層の屋の棟《むね》に騎《の》り、或ときは窓より窓にわたしたる板を踐《ふ》みて、人の膽を寒からしめき。凡そこの學校國に、内訌《ないこう》起りぬといふときは、其責は多く此人の身に歸することなり。しかもベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]これを寃《ぬれぎぬ》とすること能はざるが常なりき。舍内の靜けさ、僧尼の房の如くならんは、人々の願なるに、このベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]あるがために、平和はいつも破られき。されど彼が戲《たはぶれ》は人を傷《そこな》ふには至らざりしが、獨りハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]に對しての振舞は、やゝ中傷の嫌ありとおもはれぬ。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]はこれを憎みてあはれ福《さいはひ》の神は、直《すぐ》なる「ピニヨロ」の木を顧みで、珠を朽木に抛《な》げ與へしよ抔《など》いひぬ。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は羅馬の議官《セナトオレ》の甥《おひ》にて、その家富みさかえたればなるべし。
 ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は何事につけても、人に殊なる見《けん》を立て、これを同學のものに説き聞かせて、その聽かざるものをば、拳もて制しつれば、いつも級中にて、出色の人物ともてはやされき。彼と我とは性質|太《いた》く異なるに、彼は能く我に親みき。唯だわがあまりに爭ふ心に乏《とぼし》きをば、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]嘲り笑ひぬ。
 或時ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]の我にいふやう。われ若し我拳の、一たび爾《なんぢ》を怒らしむるを知らば、われは必ず爾を打つべし。汝は人に本性を見するときなきか。わが汝を嘲るとき、汝は何故に拳を揮《ふる》ひて我面を撲《う》たんとせざる。その時こそ我は汝がまことの友となるならめ。されど今はわれこの望を絶ちたりといひき。
 わがダンテ[#「ダンテ」に傍線]の熱の少しく平らぎたる頃なりき。ひと日ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は我前なる卓に腰掛けて、しばし故ありげなる笑をもらしつゝ我顏を見つめ居たるが、忽ち我にいふやう。汝は我にもまして横着なる男なり。善くも狂言して人を欺くことよ。床は呪水に濡らされ、身は護摩《ごま》の煙に薫《いぶ》さるゝは、これがために非ずや。我知らじとやおもふ、汝はダンテ[#「ダンテ」に傍線]を讀みたるを。
 血は我頬に上りぬ。われは爭《いか》でかさる禁を犯すべきと答へき。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]のいはく。汝が昨夜物語りし惡魔の事は、全く神曲の中なる惡魔ならずや。汝が空想はゆたかなれば、わが説くを厭かず聽くならん。地獄に火※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]の海、瘴霧《しやうむ》の沼あるは、汝が早くより知るところならん。されど地獄には又深き底まで凍りたる海あり。その中に閉ぢられたる亡者も亦少からず。その底にゆきて見れば、恩に負《そむ》きし惡人ども集りたり。「ルチフエエル」(魔王)も神に背きし報にて、胸を氷にとぢられたるが、その大いなる口をば開きたり。その口に墮ちたるは、ブルツス[#「ブルツス」に傍線]、カツシウス[#「カツシウス」に傍線]、ユダス・イスカリオツト[#「ユダス・イスカリオツト」に傍線]なり。中にもユダス・イスカリオツト[#「ユダス・イスカリオツト」に傍線]は、魔王が蝙蝠《かはほり》の如き翼を振ふ隙に、早く半身を喉の裡に沒したり。この「ルチフエエル」が姿をば、一たび見つるもの忘るゝことなし。われもダンテ[#「ダンテ」に傍線]が詩にて、彼奴《かやつ》と相識《ちかづき》になりたるが、汝はよべの囈語《うはごと》に、その魔王の状を、詳《つばら》に我に語りぬ。その時われは今の如く、汝はダンテ[#「ダンテ」に傍線]を讀みたるかと問ひぬ。夢中の汝は、今より直《すなほ》にて、我に眞を打ち明け、ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]が事をさへ語り出でぬ。何故に覺めたる後には我を隔てんとする。我は汝が祕事《ひめごと》を人に告ぐるものにあらず。汝が禁を犯したるは、汝が身に取りて譽となすべき事なり。我は久しく汝が上にかゝることあらんを望みき。されど彼書をば、汝何處にてか獲つる。我も一部を藏したれば、汝若し蚤《はや》く我に求めば、我は汝に借しゝならん。我はハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]がダンテ[#「ダンテ」に傍線]を罵りしを聞きしより、その良き書なるを推し得て、汝に先だちて
前へ 次へ
全169ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング