閧ォ。
 われは生れかはりたる如くなりき。ダンテ[#「ダンテ」に傍線]は實にわがために、新に發見したる亞米利加なりき。我空想は未だ一たびも斯く廣大に、斯く豐饒なる天地を望みしことなかりしなり。その岩石何ぞ峨々たる。その色彩何ぞ奕々《えき/\》たる。我は作者と共に憂へ、作者と共に樂み、作者と共に當時の生活を閲《けみ》し盡したり。地獄の關に刻めりといふ銘は、全篇を讀む間、我耳に響くこと、世の末の裁判の時、鳴りわたるらん鐘の音の如くなりき。その銘に云《いは》く。
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こゝすぎて  うれへの市《まち》に
  こゝすぎて  歎の淵に
こゝすぎて  浮ぶ時なき
  群に社《こそ》  人は入るらめ
あたゝかき  情はあれど
  おぎろなき  心にたづね
きはみなき  ちからによりて
  いつくしき  法《のり》をうき世に
しめさんと  この關の戸を
  神や据ゑけん
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われは※[#「風にょう+(犬/(犬+犬))、第4水準2−92−41]風《へうふう》に捲き起さるゝ沙漠の砂の如き、常に重く又暗き空氣を見き。われは亡魂の風に向ひて叫喚するとき、秋深き木葉の如く墜ちゆく亞當《アダム》が族《やから》を見き。而れども言語の未だ血肉とならざりし世にありし靈魂の王たる人々のこゝにあるを見るに※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《およ》びて、我眼は千行《ちすぢ》の涙を流しつ。ホメロス[#「ホメロス」に傍線]、ソクラテエス[#「ソクラテエス」に傍線]、ブルツス[#「ブルツス」に傍線]、ヰルギリウス[#「ヰルギリウス」に傍線]、これ皆永く樂土の門に入ること能はずしてこゝに留りたるものなりき。ダンテ[#「ダンテ」に傍線]が筆は、此等の人に、地獄といふに負《そむ》かざらん限の、安さ樂しさを與へたれど、そのこゝにあるは、呵責《かしやく》ならぬ苦、希望なき恨にして、長く浮ぶ瀬なき罪人の陷いるなる、毒泡迸り、瘴烟《しやうえん》立てる、深き池沼に圍まれたる大牢獄の裡《うち》なること、よその罪人に殊ならず。われはこれを讀みて、平なること能はざりき。基督の一たび地獄に降りて、又主の傍に昇りしとき、彼は何故にこゝの谿間の人々を隨へゆかざりしか。彼は當時同じ不幸にあへるものに、同じ憐を垂れざることを得たりしか。われは讀むところの詩なるを忘れつ。沸きかへる膠《にべ》の海より聞ゆる苦痛の聲は、我胸を衝《つ》きたり。われは「シモニスト」の群を見き。その浮き出でゝは、鬼の持てる鋭き鐵搭《くまで》にかけられて、又沈めらるゝを見き。ダンテ[#「ダンテ」に傍線]が敍事の生けるが如きために、其|状《さま》深くも我心に彫《ゑ》りつけられたるにや、晝は我念頭に上り、夜は我夢中に入りぬ。我囈語《うはごと》の間には、屡※[#二の字点、1−2−22]「パペ、サタン、アレツプ、サタン、パペ」といふ詞聞えぬ。こはわが讀みたる神曲の文なるを、同房の書生はさりとも知らねば、我魂まことに惡魔に責められたるかと疑ひ惑ひぬ。教場に出でゝも、我心は課程に在らざりき。師の聲にて、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ、又何事をか夢みたる、と問はるゝ毎に、われは且恐れ且恥ぢたり。されどこの儘に神曲を擲《なげう》たんことは、わがなすこと能はざるところなりき。
 我が暮らす日の長く又重きことは、ダンテ[#「ダンテ」に傍線]が地獄にて負心《ふしん》の人の被《き》るといふ鍍金《めつき》したる鉛の上衣の如くなりき。夜に入れば、又我禁斷の果に匍《は》ひ寄りて、その惡鬼に我妄想の罪を數《せ》めらる。かの人を螫《さ》しては※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのほ》に入り、一たびは烟となれど、又「フヨニツクス」(自ら焚《や》けて後、再び灰より生るゝ怪鳥)の如く生れ出でゝ、毒を吐き人を傷《やぶ》るといふ蛇の刺《はり》をば、われ自ら我膚の上に受くと覺えき。
 わが夢中に地獄と呼び、罪人と叫ぶを聞きて、同房の書生は驚き醒むることしば/\なりき。或る朝老僧の舍監を勤むるが、我|臥床《ふしど》の前に來しに、われ眠れるまゝに眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》き、おのれ魔王と叫びもあへず、半ば身を起してこれに抱きつき、暫し角力《すま》ひて、又枕に就きしことあり。
 わがよな/\惡魔に責めらるといふ噂は、やう/\高くなりぬ。我床には呪水を灑《そゝ》ぎぬ。わが眠に就くときは、僧來りて祈祷を勸めたり。此處置は益※[#二の字点、1−2−22]我心を妥《おだやか》ならざらしめき。囈語《うはごと》の由りて出づるところは、われ自ら知れり。これを隱して人を欺《あざむ》くことの快からぬために、我血はいよ/\騷ぎ立ちぬ。數日の後、反動の期至り、我心は風の吹き荒れたる迹《あと》
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