ホ、盡く諳《そら》んぜしめられき。ダンテ[#「ダンテ」に傍線]が作をば生徒の目に觸れしめざりき。我は僅に師の詞によりて、そのおもなる作は、地獄、淨火、天堂の三大段に分れたるを知れりしのみ。この分けかたは、既に我空想を喚《よ》び起して、これを讀まんの願は、我心に溢れたり。されどダンテ[#「ダンテ」に傍線]は禁斷の果《くだもの》なり。その味は、竊《ぬす》むにあらでは知るに由なし。
 或る日ピアツツア、ナヲネ[#「ピアツツア、ナヲネ」に二重傍線](大なる廣こうぢにて、夏の頃水を湛ふることあり)を漫歩して、積み疊《かさ》ねたる柑子《かうじ》、地に委《ゆだ》ねたる鐵の器、破衣《やれごろも》、その外いろ/\の骨董を列ねたる露肆《ほしみせ》の側に、古書古畫を賣るものあるを見き。こゝに卑き戲畫あれば、かしこに刃を胸に貫きたる聖母の圖あり。似も通はぬものゝ伍をなしたる中に、ふとメタスタジオ[#「メタスタジオ」に傍線]が詩集一卷我目にとまりぬ。我懷には猶一「パオロ」ありき。こは半年前ボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]の君が、小遣錢にせよと賜《たまは》りし「スクヂイ」の殘にて、わがためには輕んじ難き金額なりき。(一「スクウド」は約我一圓五十錢に當る。十「パオリ」に換ふべし。一「パオロ」は十五錢許なり。十「バヨツチ」に換ふべし。「スクウド」、「パオロ」は銀貨、「バヨツチ」は銅貨なり。)幾個の銅錢もて買ふべくば、この卷|見※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《みのが》すべきものならねど、「パオロ」一つを手離さんはいと惜しとおもひぬ。價を論ずれども成らざりしかば、思ひあきらめて立ち去らんとしたる時、一書の題簽《だいせん》に「ヂヰナ、コメヂア、ヂ、ダンテ」(ダンテ[#「ダンテ」に傍線]が神曲)と云へるあるを見出しつ。嗚呼、これこそは我がために、善惡二途の知識の木になりたる、禁斷の果《このみ》なれ。われはメタスタジオ[#「メタスタジオ」に傍線]の集を擲《なげう》ちて、ダンテ[#「ダンテ」に傍線]の書を握りつ。さるに哀《かなし》きかな、この果は我手の屆かぬ枝になりたり。その價は二「パオリ」なりき。露肆の主人は、一錢も引かずといふに、わが銀錢は掌中に熱すれども、二つにはならず。主人、こは伊太利第一の書なり、世界第一の詩なりと稱《たゝ》へて、おのれが知りたる限のダンテ[#「ダンテ」に傍線]の名譽を説き出しつ。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]には無下《むげ》にいひけたれたるダンテ[#「ダンテ」に傍線]の名譽を。
 露肆の主人のいふやう。この卷は一葉ごとに一場の説教なり。これを書きしは、かう/″\しき預言者にて、その指すかたに向ひて往くものは、地獄の火※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]を踏み破りて、天堂に抵《いた》らんとす。若き華主《だんな》よ。君はまだ此書を讀み給ひし事なきなるべし。然らずば君一「スクウド」をも惜み給はぬならん。二「パオリ」は言ふに足らざる錢なり。それにて生涯讀み厭くことなき、伊太利第一の書を藏することを得給はゞ、實にこよなき幸ならずや。
 嗚呼、われは三「パオリ」をも惜まざるべし。されど我手中にはその錢なきを奈何せん。かの伊蘇普《エソオポス》が物語に、おのがえ取らぬ架上の葡萄をば、酸《す》しといひきといふ狐の事あり。われはその狐の如く、ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]に聞きたるダンテ[#「ダンテ」に傍線]の難を囀《さへづ》り出し、その代にはいたくペトラルカ[#「ペトラルカ」に傍線]を讚め稱へき。露肆の主人は聞|畢《をは》りて。さなりさなり。おのれの無學なる、固より此の如き大家を囘護せん力は侍らず。されど君もまだ歳若ければ、此の如き大家を非難すべきにあらざるべし。おのれはえ讀まぬものなり。君は未だ讀まざるものなり。されば褒むるも貶《けな》すも、遂に甲斐なき業ならずや。唯だ訝《いぶ》かしきは、君はまだ讀まぬ書をいひおとし給ふことの苛酷なることぞといふ。われは心に慙《は》ぢて、我詞の全く師の口眞似なるを白状したり。主人も我が樸直《すなほ》なるをや喜びけん、書を取りて我にわたしていふやう。好し、一「パオロ」にて君に賣らん。その代には早く讀み試みて、本國の大詩人をあしざまに言ふことを止め給へ。

   神曲、吾友なる貴公子

 何等の快事ぞ。神曲は今我書となりぬ。我が永く藏することを得るものとなりぬ。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]が非難をば、我始より深く信ぜざりき。わが奇を好む心は、かの露肆《ほしみせ》の主人が言に挑《いど》まれて、愈※[#二の字点、1−2−22]|熾《さかん》になりぬ。われは人なき處に於いて、はじめて此卷を繙《ひもと》かん折を、待ち兼ぬるのみな
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