ニいふなる固執の妄想か。兎まれ角まれ、ペトラルカ[#「ペトラルカ」に傍線]とハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]とは似もよらぬ人なるは、爭ひ難かるべし。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]は我等にかの亞弗利加《アフリカ》と題したる、長き敍事詩の四分の一を諳誦せしめんとせしかば、幾行の涙、幾下の鞭か、我等が世々のスチピオ[#「スチピオ」に傍線]を怨む媒《なかだち》をなしたりけん。
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ペトラルカ[#「ペトラルカ」に傍線]は基督暦千三百四年七月二十日アレツツオ[#「アレツツオ」に二重傍線]に生れき。いにしへの希臘羅馬時代にのみ眼を注ぎたりしが、千三百二十七年アヰニヨン[#「アヰニヨン」に二重傍線]にてラウラ[#「ラウラ」に傍線]といふ婦人に逢ひ、その戀に引かれて、又|現世《げんせ》の詩人となりぬ。おのが上と世々のスチピオ[#「スチピオ」に傍線](羅馬の名族)の上とを、千載の下に傳へんと、長篇の敍事詩亞弗利加を著《あらは》しつ。今はその甚だ意を經ざりし小抒情詩世に行はれて、復た亞弗利加を説くものなし。
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我等は日ごとにペトラルカ[#「ペトラルカ」に傍線]の深邃《しんすゐ》なる趣味といふことを教へられき。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]の云ふやう。膚淺《ふせん》なる詩人は水彩畫師なり、空想の子なり。凡そ世道人心に害あること、これより甚しきものあらじ。その群にて最大なりとせらるゝダンテ[#「ダンテ」に傍線]すら、我眼より見るときは、小なり、極めて小なり。ペトラルカ[#「ペトラルカ」に傍線]は抒情詩の寸錦のみにても、尚朽ちざることを得べきものなり。ダンテ[#「ダンテ」に傍線]は不朽ならんがために、天堂人間地獄をさへ擔ひ出しゝものなり。さなり。ダンテ[#「ダンテ」に傍線]も韻語をば聯《つら》ねたり。そのバビロン[#「バビロン」に二重傍線]塔の如きもの、後の世に傳はりたるは、これが爲なり。されど若しその詞だにも拉甸《ラテン》ならましかば、後の世の人せめては彼が學殖をおもひて、些の敬をば起すなるべし。さるを彼は俚言もて歌ひぬ。ボツカチヨオ[#「ボツカチヨオ」に傍線]の心醉せる、これを評して、獅《しゝ》の能く泳ぎ、羊の能く踏むべき波と云ひき。我はその深さをも、その易さをも見ること能はず。通篇脚を立つべき底あることなし。唯だ昔と今との間を、ゆきつ戻りつするを見るのみ。我が眞理の聖使たるペトラルカ[#「ペトラルカ」に傍線]を見ずや。既往の天子法皇を捉へて、地獄に墮すを、手柄めかすやうなる事をばなさず、その生れあひたる世に立ちて、男性のカツサンドラ[#「カツサンドラ」に傍線](希臘の昔物語に見えたる巫女《みこ》)となり、法皇王侯の嗔《いかり》を懼《おそ》れずして預言したるは、希臘悲壯劇の中なる「ホロス」の群の如くなりき。嘗て面《まのあた》り査列斯《チヤアルス》四世を刺《あざけ》りて、徳の遺傳せざるをば、汝に於いてこれを見ると云ひき。羅馬と巴里とより、月桂冠を贈らんとせしとき、ペトラルカ[#「ペトラルカ」に傍線]は敢て輙《すなは》ち受けずして、三日の考試に應じき。その謙遜なりしこと、今の兒曹《こら》も及ばざるべし。考試畢りて後、彼は「カピトリウム」の壇に上りぬ。拿破里《ナポリ》の王は手づから濃紫の袍《はう》を取りて、彼が背に被《き》せき。これに月桂《ラウレオ》の環をわたしたるは、羅馬の議官《セナトオレ》なりき。此の如き光榮は、ダンテ[#「ダンテ」に傍線]の身を終ふるまで受くること能はざりしところなり。
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ダンテ[#「ダンテ」に傍線]は千二百六十五年フイレンチエ[#「フイレンチエ」に二重傍線]に生れぬ。そのはじめの命名はヅランテ[#「ヅランテ」に傍線]なりき。神曲に見えたるベアトリチエ[#「ベアトリチエ」に傍線]との戀は、夙《はや》く九歳の頃より始りぬ。千二百九十年戀人みまかりぬ。是れダンテ[#「ダンテ」に傍線]が女性の美の極致にして、ダンテ[#「ダンテ」に傍線]はこれに依りて、心を淨め懷《おもひ》を崇《たか》うせしなり。アレツツオ[#「アレツツオ」に二重傍線]とピザ[#「ピザ」に二重傍線]との戰ありしときは、ダンテ[#「ダンテ」に傍線]軍人たりき。後政治家となりて、千三百二十一年ラヱンナ[#「ラヱンナ」に二重傍線]にて歿す。
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ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]が講説は、いつも此の如くペトラルカ[#「ペトラルカ」に傍線]を揚げダンテ[#「ダンテ」に傍線]を抑ふるより外あらざりき。この兩詩人をば、匂ふ菫花、燃ゆる薔薇の如く並び立たせてもあるべきものを。ペトラルカ[#「ペトラルカ」に傍線]が小抒情詩を
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