轤ハなるべし。

   學校、えせ詩人、露肆《ほしみせ》

 フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君は夫に隨ひて旅立ち給ひぬ。我は「ジエスヰタ」派の學校の生徒となりたり。わが日ごとの業《わざ》もかはり、われに交る人の面も改まりて、定なき演劇めきたる生涯の端はこゝに開かれぬ。時々刻々の變化のいと繁きに、歳月の遷《うつ》りゆくことの早きことのみぞ驚かれし。當時こそ片々の畫圖となりて我目に觸れつれ、今に至りて首《かうべ》を囘《めぐら》せば、その片々は一幅の大畫圖となりて我前に横はれり。是れわが學校生活なり。旅人の高山の巓《いたゞき》に登り得て、雲霧立ち籠めたる大地を看下すとき、その雲霧の散るに從ひて、忽ち隣れる山の尖《さき》あらはれ、忽ち日光に照されたる谿間《たにま》の見ゆるが如く、我心の世界は漸く開け、漸く擴ごりぬ。カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野を圍める山に隔てられて、夢にだに見えざりける津々浦々は、次第に浮び出で、歴史はそのところ/″\に人を住はせ、そのところ/″\にて珍らしき昔物語を歌ひ聞せたり。一株の木、一輪の花、いづれか我に興を與へざる。されど最も美しく我前に咲き出でたるは、わが本國なる伊太利なりき。我も一個の羅馬人ぞとおもふ心には、我を興起せしむる力なからんや。我都のうちには、寸尺の地として、我愛を引き、我興を催さゞるものなし。街の傍に棄てられて、今は界《さかひ》の石となりたる、古き柱頭も、わがためには、神聖なる記念なり、わがためには、めでたき音色に心を惱ますメムノン[#「メムノン」に傍線]が塔なり。(昔物語にアメノフイス[#「アメノフイス」に傍線]といふ王ありき。エチオピア[#「エチオピア」に二重傍線]を領しつるが、希臘のアヒルレエス[#「アヒルレエス」に傍線]に滅されぬ。その像を刻める塔、埃及《エヂプト》なるヂオスポリス[#「ヂオスポリス」に二重傍線]に立てり、日出日沒ごとに鳴るといひ傳ふ。)テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]河に生ふる蘆の葉は風に戰《そよ》ぎて、我にロムルス[#「ロムルス」に傍線]とレムス[#「レムス」に傍線]との上を語れり。凱旋門、石の柱、石の像は、皆我心に本國の歴史を刻ましめんとす。我心はつねに古希臘、古羅馬の時代に遊びて、師の賞譽にあづかりぬ。
 凡そ政界にも、教界にも、旗亭に集まるものも、富豪の骨牌《かるた》卓《づくゑ》のめぐりに寄るものも、社會といふ社會の限、必ず太郎|冠者《くわじや》のやうなるものありて、もろ人の嘲戲は一身に聚《あつ》まる習なり。學校にも亦此の如き人あり。我等少年生徒の眼は、早くも嘲戲の的《まと》を見出したり。そは我等が教師多かる中にて、最眞面目なる、最怒り易き、最|可笑《をか》しき一人なりき。名をば「アバテ」ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]となんいひける。元と亞拉伯《アラビア》の産《うまれ》なるが、穉《をさな》き時より法皇の教の庭に遷《うつ》されて、こゝに生ひ立ち、今はこの學校の趣味の指南役、テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]大學院《アカデミア》の審美上主權者となりぬ。
 詩といふ神のめづらしき賜《たまもの》につきては、われ人となりて後、屡※[#二の字点、1−2−22]考へたづねしことあり。詩は深山の裏なる黄金の如くぞおもはるゝ。家庭と學校との教育は、さかしき鑛掘《かねほり》、鑛鋳《かねふき》などのやうに、これを索《もと》め出だし、これを吹き分くるなり。折々は初より淨き黄金にいで逢ふことあり。自然詩人が即興の抒情詩これなり。されど鑛山の出すものは黄金のみにあらず。白銀いだす脈もあり。錫《すゞ》その外|卑《いやし》き金屬を出す脈もあり。その卑きも世に益あるものにしあれば、只管《ひたすら》に言ひ腐《くた》すべきにもあらず。これを磨き、これに鏤《ちりば》むるときは、金とも銀とも見ゆることあらん。されば世の中の詩人には、金の詩人、銀の詩人、銅の詩人、鐵の詩人などありとも謂ふことを得べし。こゝに此列に加はるべきならぬ、埴《はに》もて物作る人ありて、強ひて自ら詩人と稱す。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]は實にその一人なりき。
 ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]は當時一流の埴瓮《はにべ》つくりはじめて、これを氣象情致の※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はるか》に優れたる詩人に擲《な》げ付け、自ら恥づることを知らざりき。字法句法の輕捷《けいせふ》なる、體制音調の流麗なる、詩にあらねども詩とおもはれ、人々の喝采を受けたり。平生ペトラルカ[#「ペトラルカ」に傍線]を崇《あが》むも、その「ソネツトオ」の音調のみ會し得たるにやあらん。さらずば、矮人《わいじん》觀場なりしか。又狂人にあり
前へ 次へ
全169ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング