Aニ[#「フアビアニ」に傍線]といふ士官と倶《とも》に一間に歩み入り給ひぬ。
 ボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]の別墅《べつしよ》に婚禮あり。世に罕《まれ》なるべき儀式を見よ。この風説は或る夕カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]なるドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]があばら屋にさへ洩れ聞えぬ。フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君はかの士官の妻になるべき約を定めて、遠からずフイレンチエ[#「フイレンチエ」に傍線]なるフアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]家の莊園に遷《うつ》らんとす。儀式あるべき處は羅馬附近の別墅なり。※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《かしは》いとすぎ桂など生ひ茂りて、四時緑なる天を戴けり。昔も今も、羅馬人と外國人と、恆《つね》に來り遊ぶ處なり。麗《うるは》しく飾りたる馬車は、緑しげき※[#「木+解」、第3水準1−86−22]の並木の道を走り、白き鵝鳥は、柳の影うつれる靜けき湖を泳ぎ、機泉《しかけのいづみ》は積み累《かさ》ねたる巖の上に迸《ほとばし》り落つ。道傍には、農家の少女ありて、鼓を打ちて舞へり。胸(乳房)ゆたかなる羅馬の女子は、燿《かゞや》く眼にこの樣を見下して、車を驅《か》れり。我もドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]に引かれて、恩人のけふの祝に、蔭ながら與《あづか》らばやと、カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]を立出で、別墅の苑《その》の外に來ぬ。燈の光は窓々より洩れたり。フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]とフアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]とは、彼處《かしこ》にて禮を卒《を》へつるなり。家の内より、樂の聲響き來ぬ。苑の芝生に設けたる棧敷《さじき》の邊より、烟火空に閃き、魚の形したる火は青天を翔《かけ》りゆく。偶※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》とある高窓の背後に、男女の影うつれり。あれこそ夫婦の君なれと、ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]耳語《さゝや》きぬ。二人の影は相依りて、接吻する如くなりき。ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]は合掌して祈祷の詞を唱へつ。我も暗きいとすぎの木の下についゐて、恩人の上を神に祈りぬ。我傍なるドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]は二人の御上安かれとつぶやきぬ。烟火の星の、數知れず亂れ落るは、我等が祈祷に答ふる如くなりき。されどドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]は泣きぬ。こは我がために泣くなり。我が遠からず、分れ去るべきをおもひて泣くなり。ボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]の主人の君は、「ジエスヰタ」派の學校の一座を買ひて我に取らせ給ひしかば、我はカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野と牧者の媼《おうな》とに別れて、我行末のために修行の門出せんとす。ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]は歸路に我にいふやう。我目の明きたるうちに、おん身と此野道行かんこと、今日を限なるべし。ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]などの知らぬ、滑《なめらか》なる床、華やかなる氈《かも》をや、おん身が足は踏むならん。されどおん身は優しき兒なりき。人となりてもその優しさあらば、あはれなる我等夫婦を忘れ給ふな。あはれ、今は猶|果敢《はか》なき燒栗もて、おん身が心を樂ましむることを得るなり。おん身が籘を焚く火を煽《あふ》ぎ、栗のやくるを待つときは、我はおん身が目の中に神の使の面影を見ることを得るなり。かく果敢なき物にて、かく大なる樂をなすことは、おん身忘れ給ふならん。カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野には薊《あざみ》生ふといへど、その薊には尚紅の花咲くことあり。富貴の家なる、滑《なめらか》なる床には、一|本《もと》の草だに生ひず。その滑なる上を行くものは、蹉《つまづ》き易しと聞く。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。一たび貧き兒となりたることを忘るな。見まくほしき物も見られず、聞かまくほしき事も聞かれざりしことを忘るな。さらば御身は世に成りいづべし。我等夫婦の亡からん後、おん身は馬に騎り、又は車に乘りて、昔の破屋をおとづれ給ふこともあらん。その時はおん身に搖《ゆ》られし籃《かご》の中なる兒は、知らぬ牧者の妻となりて、おん身が前にぬかづくならん。おん身は人に驕《おご》るやうにはなり給はじ。その時になりても、おん身は我側に坐して栗を燒き、又籃を搖りたることを思ひ給ふならん。言ひ畢りて、媼は我に接吻し、面を掩ひて泣きぬ。我心は鍼《はり》もて刺さるゝ如くなりき。この時の苦しさは、後の別の時に増したり。後の別の時には、媼は泣きつれど、何事をもいはざりき。既に閾《しきゐ》を出でしとき、媼走り入りて、薫《くゆり》に半ば黒みたる聖母の像を、扉より剥ぎ取りて贈りぬ。こは我が屡※[#二の字点、1−2−22]接吻せしものなり。まことにこの媼が我におくるべきものは、この外にはあ
前へ 次へ
全169ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング