nもそなたも食卓に就け。マリウチア[#「マリウチア」に傍線]はともに來ざりしか。尊き爺《てゝ》(法皇)を拜まざりしか。※[#「酉+奄」、第3水準1−92−87]豚《ラカン》をば忘れざりしならん。眞鍮の鉤《かぎ》をも。新しき聖母の像をも。舊きをば最早形見えわかぬ迄接吻したり。ベネデツトオ[#「ベネデツトオ」に傍線]よ。おん身ほど物覺好き人はあらじ。わがかはゆきベネデツトオ[#「ベネデツトオ」に傍線]よ。かく語りつゞけて、狹き一間に伴ひ入りぬ。後にはこの一間、わがためには「ワチカアノ」(法皇の宮)の廣間の如く思はれぬ。おもふに我詩才を産み出ししは、此ひとつ家ならんか。
若き棕櫚《しゆろ》は重《おもき》を負ふこといよ/\大にして、長ずることいよ/\早しといふ。我空想も亦この狹き處にとぢ込められて、却《かへ》りて大に發達せしならん。古の墳墓の常とて、此家には中央なる廣間あり。そのめぐりには、許多《あまた》の小龕《せうがん》並びたり。又二重の幅|闊《ひろ》き棚あり。處々色かはりたる石を甃《たゝ》みて紋を成せり。一つの龕をば食堂とし、一つには壺鉢などを藏し、一つをば廚《くりや》となして豆を煮たり。
老夫婦は祈祷して卓に就けり。食|畢《をは》りて媼は我を牽《ひ》きて梯《はしご》を登り、二階なる二|龕《がん》にいたりぬ。是れわれ等三人の臥房《ねべや》なり。わが龕は戸口の向ひにて、戸口よりは最も遠きところにあり。臥床の側には、二條の木を交叉《くひちが》はせて、其間に布を張り、これにをさな子一人寐せたり。マリウチア[#「マリウチア」に傍線]が子なるべし。媼が我に「アヱ、マリア」唱へしむるとき、美しき色澤《いろつや》ある蜥蝪《とかげ》我が側を走り過ぎぬ。おそろしき物にはあらず、人をおそれこそすれ、絶てものそこなふものにはあらず、と云ひつゝ、かの穉兒をおのが龕のかたへ遷《うつ》しつ。壁に石一つ抽《ぬ》け落ちたるところあり。こゝより青空見ゆ。黒き蔦《つた》の葉の鳥なんどの如く風に搖らるゝも見ゆ。我は十字を切りて眠に就きぬ。亡《な》き母上、聖母、刑せられたる盜人の手足、皆わが怪しき夢に入りぬ。
翌朝より雨ふりつゞきて、戸は開けたれどいと闇き小部屋に籠り居たり。わが帆木綿の上なる穉子をゆすぶる傍にて、媼は苧《を》うみつゝ、我に新しき祈祷を教へ、まだ聞かぬ聖《ひじり》の上を語り、またこの野邊
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