ノ出づる劫盜《ひはぎ》の事を話せり。劫盜は旅人を覗《ねら》ふのみにて、牧者の家|抔《など》へは來ることなしとぞ。食は葱、麺包《パン》などなり。皆|旨《うま》し。されど一間にのみ籠り居らんこと物憂きに堪へねば、媼は我を慰めんとて、戸の前に小溝を掘りたり。この小テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]河は、をやみなき雨に黄なる流となりて、いと緩やかにながるめり。さて木を刻み葦を截りて作りたるは羅馬よりオスチア[#「オスチア」に二重傍線](テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]河口の港)にかよふなる帆かけ舟なり。雨あまり劇《はげ》しきときは、戸をさして闇黒裡に坐し、媼は苧をうみ、われは羅馬なる寺のさまを思へり。舟に乘りたる耶蘇は今面前に見ゆる心地す。聖母の雲に駕《の》りて、神の使の童供に舁《か》かせ給ふも見ゆ。環かざりしたる髑髏《されかうべ》も見ゆ。
雨の時過ぐれば、月を踰《こ》ゆれども曇ることなし。われは走り出でゝ遊びありくに、媼は戒《いまし》めて遠く行かしめず、又テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]の河近く寄らしめず。この岸は土|鬆《ゆる》ければ、踏むに從ひて頽《くづ》るることありといへり。そが上、岸近きところには水牛あまたあり。こは猛き獸にて、怒るときは人を殺すと聞く。されど我はこの獸を見ることを好めり。蠎蛇《をろち》の鳥を呑むときは、鳥自ら飛びて其|咽《のんど》に入るといふ類にやあらん。この獸の赤き目には、怪しき光ありて、我を引き寄せんとする如し。又此獸の馬の如く走るさま、力を極めて相鬪ふさま、皆わがために興ある事なりき。我は見たるところを沙《すな》に畫き、又歌につゞりて歌ひぬ。媼は我聲のめでたきを稱《たゝ》へて止まず。
時は暑に向ひぬ。カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野は火の海とならんとす。瀦水《たまりみづ》は惡臭を放てり。朝夕のほかは、戸外に出づべからず。かゝる苦熱はモンテ、ピンチヨオ[#「モンテ、ピンチヨオ」に二重傍線]にありし身の知らざる所なり。かしこの夏をば、我猶|記《おぼ》えたり。乞兒《かたゐ》は人に小銅貨をねだり、麪包《パン》をば買はで氷水を飮めり。二つに割りたる大西瓜の肉赤く核《さね》黒きは、いづれの店にもありき。これをおもへば唾《つ》湧《わ》きて堪へがたし。この野邊にては、日光ますぐに射下せり。我が立てる影さへ我脚下に沒せんばかりなり。水
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