W然《さんぜん》として四邊《あたり》を射るさま、室内|貧窶《ひんく》の摸樣と、全く相反せり。圖するところはヂド[#「ヂド」に傍線]に扮したるアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が胸像なりき。氣高《けだか》く麗《うるは》しきその面輪《おもわ》、威ありて險《けは》しからざる其額際、皆我が平生の夢想するところに異ならず。我視線は覺えずすべりて、壁間の畫より座上の主人《あるじ》に移りぬ。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は面を掩ひて、世の人の我を忘れし如く、おん身も今は我を忘れて、疾く行き給へといふ。われ。否、われ爭《いか》でか行くことを得ん、爭でか此儘に行くことを得ん。おん身は聖母《マドンナ》の惠を忘れ給ふか。聖母はおん身を救ひ給はん、我等を救ひ給はん。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]。おん身は衰運に乘じて人を辱《はづかし》めんとはし給はざるべし。むかし交らひ侍りし時より、おん身の心のさる殘忍なる心ならざるを知る。さらばおん身は何故に、世擧《よこぞ》りて我を譽め我に諛《へつら》ふ時我を棄てゝ去り、今ことさらに我が世に棄てられたる殘躯《ざんく》の色も香もなきを訪《とぶら》ひ給ふぞ。われ。情なき事をな宣給《のたま》ひそ。我|爭《いか》でかおん身を棄つべき。我を棄て給ひしは、我を逐ひて風塵の巷《ちまた》に奔《はし》らしめ給ひしは、おん身にこそあれ。かく言はゞ、おん身は我を自ら揣《はか》らざるものとやし給はん。さらば只だ我を驅逐せしものは我運命なり、我因果なりとやいはん。此詞|纔《わづか》に出でゝ、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]はその猶美しき目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》り、ことばはなくて我面を凝視し、その色を失へる唇はものいはんと欲する如くに動きて又止み、深き息|徐《おもむ》ろに洩れて、目は地上に注《そゝ》がるゝことしばらくなりき、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は忽ち右手《めて》を擧げて、緩《ゆるやか》にその額《ぬか》を撫でたり。一の祕密の神とおのれとのみ知れるありて、此時心頭に浮び來りしにやあらん。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は再び口を開きぬ。我は君と再會せり。此世にて再會せり。再會していよ/\君が情ある人なることを知る。されど薔薇は既に凋《しを》れ、白鵠《くゞひ》は復た歌はずなりぬ。おもふに君は聖母《
前へ
次へ
全337ページ中309ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング