ヘ斑々として雪を被《かぶ》れる如くぞなりぬる。われはこの地點を守りかねて、飛びおるれば、戲奴《おどけやつこ》にいでたちたる男走り來て、手に持てる采配もて、我衣を拂ひ呉れたり。
 暫し避けて佇《たゝず》む程に、さきの車又かへり路に我を見て、再び「コンフエツチイ」を投げかけたり。わが未だ迎へ戰ふに遑《いとま》あらざる時、砲聲地に震ひて、くらべ馬始まるをしらせしかば、車は皆狹き横道に入りて、翁と娘とも見えずなりぬ。二人は我を識りたりと覺し。奈何《いか》なる人にかあらん。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は今日街に見えざりき。かの翁は其人にて、娘はアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]にはあらずや。
 我は街の角に近き椅子に倚りぬ。砲は再び響きて、競馬は街のたゞ中をヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の廣こうぢさして馳せゆき、荒浪の寄するが如き群衆はその後に隨ひぬ。わが踵《くびす》を旋《めぐら》して還《かへ》らむとするとき、馬よ/\と呼ぶ聲俄に喧《かまびす》しく、競馬の内なる一頭の馬、さきなる埒《らち》にて留まらず、そが儘街を引きかへし來れるに、最早馬過ぎたりと心許しゝ群衆は、あわて騷ぐこと一かたならず。吾心頭には稻妻の如く昔のおそろしかりしさま浮びたり。瞬《またゝ》くひまに街の兩側に避けたる人の黒山の如くなる間を、兩脇より血を流し、鬣《たてがみ》戰《そよ》ぎ、口より沫《あわ》出でたる馬は馳せ來たり。されど我前を過ぐるとき、いかにかしけむ銃もて撃《うた》れたる如く打ち倒れぬ。怪我せし人やあると、人々しばしは安き心あらざりしが、こたびは聖母やさしき手を信者の頭の上に擴げ給ひて、一人をだに傷け給はざりき。
 危さの容易《たやす》く過ぎ去りしは、祭の興を損ぜずして、却《かへ》りて人の心を亂し、人の歡を助けたり。これよりは謝肉祭の大詰なる燭火の遊(モツコロ)始まらんとす。今まで列を成したりし馬車は漸く亂れて、街上の雜※[#「二点しんにょう+鰥のつくり」、第4水準2−89−93]《ざつたふ》は人聲の噪しさと共に加はり、空の暗うなりゆくを待ち得て、人々持たる燭に火を點せり。中には一束を握りて、こと/″\く燃せるもあり。徒《かち》なるも車なるも燭を把《と》りたるに、窓のうちに坐したる人さへ火持たぬはあらねば、この美しき夜は地にも星ある如くなり。家々より街の上へさし出せる火には、い
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