Zにて結びし氷今融くるなるべし。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が何を云ひしと問ふか。彼少女は粗暴なる少年に車を挽《ひ》かれて、且《かつ》は懼《おそ》れ且は喜びたりき。彼少女は面紗《めんさ》を緊《きび》しく引締めて、身をば車の片隅に寄せ居たり。我は途すがらかゝる美しき少女に言ふべきことの限を言ひしかど、彼は車を下るとき我がさし伸べたる手にだに觸れざりき。われ。汝が大膽なることよ。汝は歌女と相識れるにあらずして、よくもさまで馴々しくはもてなしゝよ。こは我が決して敢てせざる所ぞ。友。我もさこそ思へ。汝は世の中を知らず、又女の上を知らねばなり。今日はかの女いまだ我に答へざりしかど、我には猶多少の利益あり。そは少女が我面を認めたることなり。我友はこれより我にさきの詩を誦《ず》せしめて聞き、頗妙なり、羅馬日記《ヂアリオ、ロオマ》に刻するに足ると稱へき。我等二人は杯を擧げてアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が壽《ことほぎ》をなしたり。我等のめぐりなる客も皆歌女の上を語りて口々に之を讚め居たり。
我がベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]に別れて家に歸りしは、夜ふけて後なりき。床に上りしかど、いも寐られず。われはこよひ見し阿百拉《オペラ》の全曲を繰り返して心頭に畫き出せり。ヂド[#「ヂド」に傍線]が初めて場に上りし時、單吟《アリア》に入りし時、對歌《ヅエツトオ》せし時より、曲終りし時まで、一々肝に銘じて、其間の一節だに忘れざりき。我は手を被中《ひちゆう》より伸べて拍《う》ち鳴らし、聲を放ちてアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]と呼びぬ。次に思ひ出したるは我が心血を濺《そゝ》ぎたる詩なり。起きなほりてこれを寫し、寫し畢《をは》りてこれを讀み、讀みては自ら其妙を稱《たゝ》へき。當時はわれ此詩のやゝ情熱に過ぐるを覺えしのみにて、その名作たることをば疑はざりき。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は必ず我詩を拾ひしならん。今は彼少女家に歸りて半ば衣を脱ぎ、絹の長椅《ソフア》の上に坐し、手もて頤《おとがひ》を支へて、ひとり我詩を讀むならん。
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きみが姿を仰ぎみて、君がみ聲を聞くときは、おほそら高くあま翔《かけ》り、わたつみふかくかづきいり、かぎりある身のかぎりなき、うき世にあそぶこゝちして、うた人なりしいにしへのダヌテ[#「ダヌテ」に傍線]が
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